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青木繁 「享楽
岡田三郎助 「イタリアの少女
荻原守衛 「坑夫
岸田劉生 「童女舞姿
岸田劉生 「画家の妻
熊谷守一 「陽の死んだ日
小出楢重 「寝台の裸婦(Aの裸女)
児島虎次郎 「自画像
児島虎次郎 「里の水車
児島虎次郎 「ベゴニアの畠
児島虎次郎 「睡れる幼きモデル
児島虎次郎 「アルハンブラ宮殿
児島虎次郎 「
児島虎次郎 「奈良公園
佐伯祐三 「広告“ヴェルダン”
関根正二 「信仰の悲しみ
藤島武二 「耕到天
前田寛治 「二人の労働者
松本竣介 「都会
満谷国四郎 「緋毛氈
山本鼎 「サーシャ
吉田苞 「別府の港
萬鉄五郎 「雲のある自画像
 

■解説
岸田劉生(1891-1929)は、東京銀座に生まれました。1908(明治41)年、白馬会洋画研究所に入り、黒田清輝の教えをうけます。
1911(明治44)年、20歳のとき、岸田は初めて雑誌「白樺」を読み、ルノワール、ゴッホ、セザンヌ、ゴーギャン、マティスなどの作品を知り、感動しました。さらにその翌年、白樺同人の柳宗悦や武者小路実篤らと知りあい、大きな刺激をうけます。これらの出会いは、1912(大正元)年秋の第1回フュウザン会の開催へと結びついていきます。フュウザン会は、ゴッホやセザンヌ、フォーヴィスムなどの西洋の新しい美術の影響をうけた画家たちによる、日本で初めての展覧会でした。
フュウザン会ののち、岸田はドイツの画家デューラーやベルギーの画家ファン=エイクなどの影響をうけ、厳格で写実的な画風へと変化します。そして、1915(大正4)年から1922(大正11)年まで、同志で結成したグループ草土社で実在感あふれる画風を展開してゆくのです。
岸田は、生涯に長女麗子の肖像画を50点あまり描きました。麗子4歳の時から本格的に描きはじめられた肖像は、麗子の成長、岸田の画風の変化をしめすものとなっています。この「童女舞姿」は、麗子9歳の時の肖像です。晩年、岸田は東洋古美術の収集や歌舞伎などに熱中していました。扇をもつ静かな立ち姿には、岸田がめざした「浮世絵風の味」がうかがえます。(注1)

注1: 参考文献:
「アサヒグラフ別冊・美術特集 岸田劉生」 (朝日新聞社) 1986年
「没後50年記念 岸田劉生展」図録 (朝日新聞社) 1979