美術館の歴史
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歴史
大原美術館は、倉敷を基盤に幅広く活躍した事業家大原孫三郎が、前年死去した画家児島虎次郎を記念して昭和5年に設立した、日本最初の西洋美術中心の私立美術館です。
日本美術のコレクターでもあった孫三郎は、親しい友人虎次郎の才能と、美術に対する真摯な姿勢を高く評価し、三度にわたる渡欧をうながします。虎次郎は、そこで制作に励むかたわら、孫三郎の同意のもと、日本人としての感覚を総動員してヨーロッパの美術作品を選び取るという作業に熱中します。
明治の気骨を持つ虎次郎の選択は、東洋の感覚と西洋美術の精華との真剣勝負でした。彼は、エル・グレコ、ゴーギャン、モネ、マティス等、今も大原美術館の中核をなす作品を丁寧に選び、倉敷にもたらします。同時に進めた中国、エジプト美術の収集にも、東西の狭間で悩みつつ文化の源流に迫ろうとした虎次郎の心情が伺い知れます。
大原美術館は、その後も、倉敷の地にあって活発な活動を続け、西洋の近代から現代の美術、日本の近代から現代の美術、民芸運動にかかわった作家たちの仕事等にコレクションを広げ、日本人の心情に裏打ちされた独特の個性を発揮するユニークな民間総合美術館として世界に知られるようになりました。
今、大原美術館は、現場で子供達や社会人と触れ合う種々の教育普及活動に加え、毎夏の美術講座や、世界を代表する音楽家を迎えてのギャラリーコンサート等を通じ、諸芸術のフロンティアと広く関わりながら、21世紀に生きて躍動する美術館として、多彩な活動を展開しています。
あゆみ
1930(昭和5)年 | 4月19日工事着工、11月5日完成。大原美術館と命名。 日本最初の西洋美術中心の私立美術館として、倉敷に誕生。 初代館長として武内潔真就任。 |
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1943(昭和18)年 | 1月18日、大原美術館の創立者大原孫三郎逝去。享年62歳。 |
1946(昭和21)年 | 5月26日、第1回美術講座開催。講師・須田国太郎。 |
1949(昭和24)年 | 4月4日、皇太子殿下台臨。 |
1950(昭和25)年 | 11月5、6日、開館20周年記念式を挙行。 11月14、15日、開館20周年記念行事開催。 |
1951(昭和26)年 | 6月、アンリ・マチス展開催。 10月、パブロ・ピカソ展開催。 |
1952(昭和27)年 | 11月、ジョルジュ・ブラック展開催。 |
1953(昭和28)年 | 12月、ジョルジュ・ルオー展開催。 |
1955(昭和30)年 | 11月6~8日、開館25周年記念行事開催。 |
1956(昭和31)年 | 4月10日、皇后陛下行啓。 |
1960(昭和35)年 | 11月7日、開館30周年記念行事開催。 |
1961(昭和36)年 |
5月30日、新渓園内に建設中の分館完成、竣工式を挙行。 7月16日より分館を近代日本の洋画、古代オリエント美術の常設展示館として公開する。 11月13日、陶器館の開館式をおこなう。 |
1963(昭和38)年 | 11月29日、芹沢けい介染色館、棟方志功板画館完成。 |
1964(昭和39)年 | 4月1日、第2代館長として藤田慎一郎就任。 8月25日、大原總一郎、第2代理事長に就任。 |
1965(昭和40)年 | 西洋の戦後現代絵画常設展示。 11月5日、開館35周年記念行事開催。 |
1970(昭和45)年 | 11月9日、東洋館完成。 11月9日、開館40周年記念行事開催。 |
1972(昭和47)年 | 11月7日、児島虎次郎室を開館。 |
1973(昭和48)年 | 年間入館者数が100万人を越す。 |
1980(昭和55)年 | 11月10日、開館50周年記念行事開催。 |
1982(昭和57)年 | 11月24日、第1回ギャラリー・コンサート開催。 |
1991(平成3)年 | 5月27日、大原謙一郎、第4代理事長に就任。 9月、本館増改築工事完了。 |
1998(平成10)年 |
3月8日、入館者数2,800万人突破。 4月1日、第3代小倉忠夫館長就任。 6月21日、仙石襄・哲子記念基金設立。 |
2002(平成14)年 |
4月1日、第4代高階秀爾館長就任。 4月、入館者3000万人突破。 8月最終土日にチルドレンズ・アート・ミュージアムを開催。以後毎年8月の土日に開催することとなる。 |
2005(平成17)年 |
12月3日、ギャラリーコンサートが100回を迎える。 ARKO(Artist in Residence Kurashiki, Ohara)事業開始。 第1回目招聘作家は津上みゆき氏。以後毎年作家を公募し、招聘している。 |
2006(平成18)年 | 7月11日-11月5日 「インパクト 東と西の近現代―もう一つの大原美術館」展開催。 |
2007(平成19)年 |
AM倉敷(Artist Meets Kurashiki)事業開始。第1回目はログズギャラリー。 以後、不定期に開催。 |
2010(平成22)年 |
9月14日-12月5日 大原美術館創立80周年記念特別展「大原BEST」開催。 10月30日-11月7日 大原孫三郎生誕130年記念特別展「大原孫三郎 日本美術への眼差し」開催 11月5日、創立80周年記念行事開催。 |
2011(平成23)年 | 6月1日、財団法人から公益財団法人へ移行。 |
大原孫三郎の業績
1902(明治35)年に、孫三郎が倉敷精思高等小学校の教室を借りて開いた学校です。そこで学んでいたのは、会社や工場、商店などで働いているため、昼間学校に通うことのできない人たちでした。学校は夜開かれ、生徒たちは商業についてのことや英語、数学、修身(今の道徳のようなもの)を中心に勉強しました。孫三郎自身は校長となり、修身を教えていました。なんと、23才という若い校長先生だったのです。倉敷の人たちに教育を受けさせようとする、孫三郎の熱心な気持ちが伝わるようです。
明治時代、多くの人たちは小学校を卒業すると働かなくてはなりませんでした。なかには、もっと勉強したいと願っている人もいましたが、十分な学費がないためにあきらめることが多かったのです。 孫三郎はそんな人たちを助け、勉強を続けることができるようにしました。この学費をだすために、多くの人によびかけてつくったのが倉敷奨学会です。そして孫三郎は、ただ学費をあたえるだけでなく、はげましの手紙を一緒に送ったり、直接会って話をしたりするなど、若者たちが立派に成長するように心がけました。孫三郎の手助けで大学に進んだ人たちの多くは、その後、世の中で活躍しました。児島虎次郎もそのうちの一人です。
大原家は、500ヘクタール(東京ドーム、約107個分)の田畑を持ち、そこではなんと2500人もの小作人が働いていました。大原家のために働く小作人のすがたを見て育った孫三郎は、早くから農業に関心をもっていました。
1914(大正3)年、孫三郎35才のとき、自分の土地で働く小作人たちだけでなく、田畑で働くすべての人の力になりたいと考え、農業研究所をつくりました。そこでは、種や肥料、害虫・病気などの研究が進められました。研究に役立つ本もたくさん集められ、図書館も建てられました。
岡山県の代表的な果物であるももやぶどうの新しい品種が、この研究所で生み出されたことは特に有名です。この研究所が、「果物王国」とよばれる岡山県のもとをつくったと言ってもよいでしょう。
この研究所は、1919(大正8)年につくられました。そのころ世の中では、多くの人たちが苦しい生活を送っていました。子どもたちの多くも生活を助けるため、小学校を卒業するとすぐに工場などに働きに出たり、家の仕事を手伝ったりしなければなりませんでした。「大原家の財産はすべて神のため、社会のために使われるべき」という考えをもっていた孫三郎が、この研究所をつくることを思い立ったのは当然のことかもしれません。研究所では、どうすればゆたかな人々とまずしい人々の差がなくなり、みんなが幸せにくらすことができるようになるか研究が進められました。