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アマン・ジャン 「
アマン・ジャン 「ヴェニスの祭
エル・グレコ 「受胎告知
ゲラン 「タンバリンを持つイタリアの女
クールベ 「秋の海
クラウス 「二月
ゴーギャン 「かぐわしき大地
コッテ 「老馬
コロー 「ラ・フェルテ=ミロンの風景
シニャック 「オーヴェルシーの運河
シャヴァンヌ 「幻想
セガンティーニ 「アルプスの真昼
セザンヌ 「水浴
セザンヌ 「風景
デルヴァン 「連馬
トゥールーズ=ロートレック 「マルトX夫人の肖像―ボルドー
ドガ 「赤い衣裳をつけた三人の踊り子
ドニ 「
ピサロ 「りんご採り
ピサロ 「ポントワーズのロンデスト家の中庭
ブールデル 「ベートーベン像
フレデリック 「万有は死に帰す、されど神の愛は万有をして蘇らしめん
ホドラー 「木を伐る人
マネ 「薄布のある帽子をかぶる女
ミレー 「グレヴィユの断崖
モネ 「睡蓮
モネ 「積みわら
モロー 「雅歌
ラファエリ 「アニエールの街路
ル・シダネル 「夕暮の小卓
ルソー 「牛のいる風景-パリ近郊の眺め,バニュー村
ルノワール 「泉による女
レールマン 「小径
ロダン 「カレーの市民―ジャン=ダール
ロダン  「説教する聖ヨハネ
 

■解説
ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919)は、フランスの印象派を代表する画家です。10代の頃、陶磁器の絵付け職人をしていたことがあり、それが後年の作風にも影響していると言われています。
1870年代から80年代にかけては、ルノワールも他の印象派の画家たちのように、明るい色彩で風景画も描いていました。しかし、彼のほんとうの興味は人物画にありました。1880年代中頃からは、人物、とくに裸婦のテーマを中心に描くようになります。
この「泉による女」では、自然の明るい日差しのなかの裸婦の姿が、量感豊かに流れるような色彩で描かれています。


■エピソード
1914(大正3)年、大原孫三郎はルノワールの「泉による女」を購入しました。
岡山県出身の洋画家で、当時在仏していた満谷国四郎の熱心な願望によるものでした。
孫三郎に買い付けをまかされたものの、満谷はルノワールとの面識はありませんでした。そこで、同じく在仏していた安井曽太郎、小川千甕(注1)を連れだって、三人で南フランスのカーニュにあるルノワールの別荘を訪ねました。その時ルノワールは73歳。重いリュウマチに悩まされ、関節が変形していたため絵筆を持てる状態ではありませんでした。だが、ルノワールは絵を描くという情熱は衰えず、手に絵筆を包帯でくくりつけて描いていました。(注2)
安井がいっさいの交渉をして、ルノワールに直接絵を描いてほしいと依頼しました。それから一年後、帰国していた満谷にかわって、安井ができあがった作品を受け取りに行きました。
「巴里のルノワールから手紙がきて、絵ができたから取りに来い、というので、受け取りに行った。…(中略)その時絵がまだ乾いていないので、持って帰るのに困ったね。」 大原美術館20周年記念の座談会に出席した安井は、当時を振り返ってそう話しています。(注2)
また、ルノワールがこの絵について、「日本は検閲がうるさいそうだから、覆いをかけといて上げよう」といって、最初はなかった膝の上の白い布を描き足したといった話も伝わっています。(注3)

注1:本名 多三郎。1882(明治15)年生まれ。仏画師北村敬重の徒弟となり仏画の賃仕事をするかたわら、浅井忠に洋画を学ぶ。代表作に「游踪集」「炬火乱舞」「群像」などがある。また島木赤彦に指導を受け、和歌や俳句、随筆をよくし、書も得意とした。1971(昭和46)年2月8日老衰のため、東京都世田谷区の自宅で死去した。(近代日本美術事典 講談社平成元年 より)
注2:大原美術館20周年記念 公開座談会(昭和25年11月15日於大原美術館)
注3:信濃毎日新聞1988年8月1日 「美 私の一点」 阿川弘之