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アマン・ジャン 「
アマン・ジャン 「ヴェニスの祭
エル・グレコ 「受胎告知
ゲラン 「タンバリンを持つイタリアの女
クールベ 「秋の海
クラウス 「二月
ゴーギャン 「かぐわしき大地
コッテ 「老馬
コロー 「ラ・フェルテ=ミロンの風景
シニャック 「オーヴェルシーの運河
シャヴァンヌ 「幻想
セガンティーニ 「アルプスの真昼
セザンヌ 「水浴
セザンヌ 「風景
デルヴァン 「連馬
トゥールーズ=ロートレック 「マルトX夫人の肖像―ボルドー
ドガ 「赤い衣裳をつけた三人の踊り子
ドニ 「
ピサロ 「りんご採り
ピサロ 「ポントワーズのロンデスト家の中庭
ブールデル 「ベートーベン像
フレデリック 「万有は死に帰す、されど神の愛は万有をして蘇らしめん
ホドラー 「木を伐る人
マネ 「薄布のある帽子をかぶる女
ミレー 「グレヴィユの断崖
モネ 「睡蓮
モネ 「積みわら
モロー 「雅歌
ラファエリ 「アニエールの街路
ル・シダネル 「夕暮の小卓
ルソー 「牛のいる風景-パリ近郊の眺め,バニュー村
ルノワール 「泉による女
レールマン 「小径
ロダン 「カレーの市民―ジャン=ダール
ロダン  「説教する聖ヨハネ
 

■解説
エドゥワール・マネ(1832-1883)は、パリの裕福な家庭に生まれました。18歳のとき家族の同意をえて、サロン系の画家トマ・クーチュールのアトリエで画家としての勉強をはじめます。しかし、しだいに伝統的な画題や技法をおもんじるクーチュールと相いれなくなり、24歳のとき彼のもとを離れます。のち、ルーヴル美術館やイタリア・スペイン旅行で過去の巨匠たちの作品をまなび、名作をモチーフとしながら、自身の近代性を前面に出した作品をつぎつぎとうみだしました。
マネは生涯、サロンみずからの作品発表の場とさだめ、何度落選しても出品しつづけたものの、その革新性はたびたび多くの非難を巻きおこしました。「草上の昼食」(1863年、オルセー美術館蔵)、「オランピア」(1863年、オルセー美術館蔵)は、とくにはげしい非難をあびた作品です。過去の巨匠の作品を土台としながら、その中に現実の女性の姿をありのままに描きいれたことが、絵画の伝統の破壊として中傷の的となったのです。
マネは生涯をパリで過ごし、そこで暮らす人々の姿を多く描きました。この「薄布のある帽子をかぶる女」は、パステルで描かれており、三分の一以下は大きくぬりのこされています。あらいタッチで手早く描かれていますが、当時の女性の表情をいきいきと伝えています。


■エピソード
世界的に有名なピアニスト・内田光子さんが、東京、大阪以外では初の地方コンサートに出演する条件は、前日のリハーサルの後に大原美術館鑑賞が条件でした。
来館された内田光子さんは本館二階の展示室に入られ、すぐにピアノ(ベヒシュタイン)を弾きたいと希望され、少しの時間でしたが実現しました。大原れいこさんと私の二人だけの聴衆。弾きながら彼女は「このベヒシュタインは1900年から1910年の間に作られたものでしょう」と正しく指摘されました。内田さんはしばらくピアノを弾いて「ベヒシュタインには止まる音、無音の状況があるのよ」と呟くように言われました。
その後、内田さんはピアノを離れ、スキップするように次々と絵を見て行かれました。そしてマネの作品「薄布のある帽子をかぶる女」の前で私を呼んで「原さん、原さん、この絵は完成してる?それとも未完成?」という質問です。三分の一以下は塗り残してあります。そしてサインは見付かりません。でも私が「マネはこの段階でバランスが取れたから完成したと考え、筆を置いたのだろうと思います。」と答えましたら、内田さんはにこにこして「そうでしょ、そうでしょ。シューベルトの未完成もそうなのよ」続いて「四楽章の形式ではなくて、二楽章のみの未完成交響曲、あれはあれで完成してるのよ」。そして早口の彼女は「明日の私のシューベルトもそうなのよ」と語ってくれました。
(中略)
翌日のコンサートはシューベルトとシェ―ンベルグの組み合わせでした。最初の曲はシューベルト・ピアノ・ソナタ・第15番、二楽章で終わりました。シューベルトが表したかったすべてを、ソナタ形式の四楽章ではなく二楽章で表し尽くしているのだ、と内田さんの言葉を思い出しながら、感動していました。(後略)

2000年11月6日、大原美術館発行「2900万人とともに」P140 「夜8時にお迎えしたお客様」より。