


大原美術館の成り立ちは、二人の人物の出会いと友情に端を発しています。二人の人物とは、大原孫三郎、そして児島虎次郎です。
大原孫三郎は、1880(明治20)年、倉敷に生まれます。大原家はこの地でも屈指の地主であり、孫三郎の父孝四郎は、1887(明治13)年に倉敷紡績を立ち上げた実業家でした。 若き孫三郎は東京専門学校(現在の早稲田大学)に学びますが、学業よりも遊興に身を投じ、倉敷に連れ戻されるような生活を送っていました。
しかし、自らの行いを悔い改め、後に孝四郎のあとを継ぎ、実業のさらなる発展に尽くしました。
また、石井十次との交わりから、石井が経営する岡山孤児院の支援をはじめ、「広く社会に意義あることを」と、 企業経営者として得た利益を還元すべく、様々な社会事業にも取り組みました。
一方、児島虎次郎は、1881(明治21)年、現在の岡山県高梁市成羽に生まれました。1902(明治35)年、東京美術学校西洋画科へ入学することとなった虎次郎は、 大原家を訪ねます。孫三郎が孝四郎に進言し立ち上げた大原奨学会からの支援を得るためでした。孫三郎は、虎次郎の誠実な人柄にほれこみ、奨学生となることを許します。 以来一歳違いの二人は、画家とパトロンという間柄を越え、生涯の親友としてともに歩むこととなります。
奨学金を得た虎次郎は、熱心に学びます。山本鼎[やまもとかなえ]、青木繁[あおきしげる]、熊谷守一[くまがいもりかず]らといった多くの秀才が在籍する中、 虎次郎は、二度の飛び級により、わずか二年で美術学校を卒業してしまいます。更に研究科(現在の大学院)に学んでいた1907(明治40)年、東京府勧業博覧会の美術展に応募し、 《なさけの庭》が一等賞宮内省(当時)買い上げという快挙を果たしました。
これを喜んだ孫三郎は、虎次郎にヨーロッパへの留学を勧めます。 1908(明治41)年、虎次郎は、フランスのパリへ渡り、その後ベルギーのゲントへ移り、同地の美術アカデミーに学びます。そこで、公聴ジャン・デルヴァンやエミール・クラウスなど、良き師に恵まれた虎次郎は、首席で卒業。帰国の途につきます。
倉敷へ戻った虎次郎は、孫三郎らの勧めにより石井十次の長女・友と結婚。
現在の倉敷市酒津に新居とアトリエを構えます。風土や画材の違いに悩みながらも、ベルギーでの学びを活かし、酒津周辺の景観などをモチーフに、数々の優れた作品を描きました。

1919(大正8)年、孫三郎の勧めにより、虎次郎は第一次大戦後のヨーロッパへ、再び留学することになりました。そのとき、虎次郎は美術作品の収集活動を孫三郎に願い出ます。 もとより、虎次郎には「個人としての願いではなく、日本の芸術界のため」という理由から、作品収集への思いがありました。
それは、第一回目の留学から帰国する際、当時フランスを代表する画家であったアマン=ジャンの《髪》の購入を懇願していることにもうかがえます。
《髪》の購入は直ちに許した孫三郎でしたが、この度の申し出には逡巡します。
「広く社会に意義あることを」と考える孫三郎は、西洋の美術作品を収集し公開することが、日本の社会においてどのような意味を持つことなのか、慎重に見極めようとしたのではないでしょうか。
孫三郎が返事を送ったのは、初めの進言からおよそ一年を経てからでした。許しを得た虎次郎は、当時、すでに巨匠と認められていたモネ、マティスらを訪ね、モネからは《睡蓮》を、マティスからは《マティス嬢の肖像》を購入します。
その他にもマルケ、セルジエなど20点あまりの作品を集め、1921(大正10)年に帰国しました。帰国の翌月、倉敷市内の小学校を会場に、それらの作品を公開します。
すると、倉敷駅から会場まで長蛇の列が途絶えることがなかったと言われるほど、全国から多くの観客が押し寄せました。
この様子を見た孫三郎は作品収集の意義を確信します。
そして、今度は作品収集のために、虎次郎を三度目のヨーロッパへ旅立たせました。その際に収集されたのがエル・グレコ《受胎告知》、ゴーギャン《かぐわしき大地》、セガンティーニ《アルプスの真昼》などの作品たちです。
残念なことに虎次郎は、1929(昭和4)年、47歳という若さで亡くなってしまいます。
この早すぎる死を悼んだ孫三郎は、虎次郎が収集した作品、そして虎次郎が画家として描いた作品を公開するために、美術館建設を決意します。
日本全体が不況にあえぎ、自身が社長を務める倉敷紡績の経営も順調でなかった中ではありましたが、1930(昭和5)年に大原美術館は開館しました。
それは、虎次郎との友情を記念するものであり、また「広く社会に意義あること」つまりは「今を生きる人々にとって意義あること」を願うものでした。

第二次世界大戦を経た大原美術館を大きく発展させたのは、孫三郎の跡を継いだ長男大原總一郎です。
總一郎は、「美術館は生きて成長してゆくもの」という信念のもと、所蔵作品の拡充と展示場の増設を行います。
まず、孫三郎と虎次郎が始めた西洋近代絵画のコレクションの拡充を図り、いわゆるエコール・ド・パリと称される1920年代パリを拠点に活躍した画家たちの作品を収集します。
また新しい美術の動向にも目を向け、ヨーロッパ、アメリカの同時代の作家たちの作品も集めます。
加えて、近代日本の絵画を積極的に収集します。それらは、美術の歴史を体系的に追うことよりも、新たな価値を創造しようとする作品という独自の視点で選び抜かれたものでした。
そして、それらを展示する場所として、1961(昭和36)年、現在の分館を増設します。
また、孫三郎の時代から親交のあった民藝運動に関わる作家たちの作品も広く収集し、現在の工芸館を、1961(昭和36)年から1963(昭和38)年にかけて建設しました。
總一郎亡き後[1968(昭和43)年没]も、大原美術館の拡張は続き、東洋館[1970(昭和45)年]、児島虎次郎記念館[1981(昭和56)年]、分館地下展示室[1987(昭和62)年]、などが相次いで完成。
1991(平成3)年には、本館も大きく増設されました。

大原美術館は、新たな時代にあって、新しい美術館のあり方を模索しています。
創立以来、私たちの中に脈々と息づく「今を生きる人にとって意義あることは何か」という問いかけと、「美術館は生きて成長してゆくもの」という信念のもと、今、私たちがなすべきことを考え、行っています。
その大切な活動の一つとして、私たちの教育普及活動もあるのです。
今を生き、未来をつくる子どもたちと、それを支える教員、保護者、地域の方々にとっても、意義ある存在となり、また共に成長していきたいと考えています。
そして、将来、成長した子どもたちが、日々を生きる中、折にふれ当館を思い出し、訪れ、生きる力を得てくれれば、こんなにうれしいことはありません。