楽焼走兎図大皿”

■解説
バーナード・リーチ(1887-1979)は、香港生まれのイギリス人です。生後まもなく母を亡くしたため、幼少期の4年間を当時日本にいた祖父母のもとで過ごしました。
10歳でイギリスに帰国。21歳の時ロンドン美術学校で、詩人・彫刻家の高村光太郎と交友を結び、その縁で、1909(明治42)年に再び来日します。 東京上野でエッチング教室を開き、やがて柳宗悦や「白樺」同人達との交流が始まりました。
1911(明治44)年、茶会で楽焼を焼いたことがきっかけで、六代尾形乾山に入門。その前年に知り合っていた富本憲吉とともに、陶芸の道を歩むことになります。 1917(大正6)年、千葉県我孫子の柳宗悦邸内に窯を築き、そこで濱田庄司と出会います。
1920(大正9)年、イギリスに帰国。濱田といっしょにイギリス西南部のコーンウォール州のセント・アイヴスにヨーロッパ最初の登り窯を築きました。
帰国後も日本の民芸関係の作家達と交流を持ち続け、何度も来日して各作家の窯で制作し、多くの展覧会に共同出品もしました。 そのいっぽう、イギリスで古くから伝わっていたスリップ・ウェアの焼成、硫化鉛の釉薬であるガレナ釉を使うなど、ヨーロッパの伝統を生かしました。
リーチはデッサン力に優れ、陶器にみごとな絵付けをほどこしました。この「楽焼走兎図の大皿」もその1点です。簡略ながら、躍動感があふれる図柄です。

■エピソード
バーナード・リーチといえば、柳宗悦、濱田庄司等とともに民芸運動に参加した工芸作家として知られています。幼いころ京都で育ち、日本に愛着をもっていました。1909年、22歳の時いらい13回来日しています。
初めて倉敷へ来たのは1934(昭和9)年、4回目の来日のときでした。大原孫三郎、總一郎親子は民芸運動を支援していた(注1)こともあり、濱田や河井とはすでに親しく交友していました。
その後も戦前・戦後、たびたび倉敷を訪れて、大原美術館で講演や展覧会を開催したり、酒津焼の窯や、羽島焼の窯で若手を指導するなど、倉敷や大原との関わりを深めていったのです。
1961(昭和36)年、大原美術館に工芸館が完成した日、濱田、河井、富本とともに開館のセレモニーに出席しました。4人とも「生きているうちに4人で一緒に陳列してもらえるなんて、こんなにうれしいことはない。」 と感激したといいます。
注1:東京駒場にある日本民藝館は、民芸運動に賛同した大原孫三郎が、その建設資金10万円(当時)を寄付して、1936(昭和11)年に創設された。

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