白磁蓋付壺”

■解説
富本憲吉(1886-1963)は、現在の奈良県生駒郡安堵町に生まれました。当初から陶芸家をめざしたわけではなく、東京美術学校の建築科で室内装飾を学びました。 卒業後の1909(明治42)年、イギリスに留学。装飾家ウィリアム・モリスの研究に没頭しました。
帰国後、バーナード・リーチが六世尾形乾山に楽焼を学んだときに、通訳として同行したことをきっかけとして、富本も陶芸の道に入りました。故郷の安堵村に帰って、最初に楽焼の窯、さらに本窯を築いて精力的に制作しました。1926(大正15)年から1946(昭和21)年までは、東京・祖師谷で、白磁の壷や皿、染付(注1)をほどこした作品を中心に制作しています。中期から晩年にかけては、京都に移住。色絵という技法(注2)を用いて見事なデザインの作品を生み出しました。
若いころ、装飾を勉強した富本はすぐれた図案家でもありました。彼は「模様から模様を作らず」ということを信条とし、過去の伝統的な作品の模様をそのまま用いることはありませんでした。自然の草木を直接写生し、それをもとに新たな模様をつぎつぎ創造していきました。
この「白磁の蓋付壷」は、東京時代に制作された作品です。乳白色でなめらかなこの壷は、端正な美をたたえています。
注1:染付:素地に直接絵付し、その上から釉薬をかけて焼成する技法。


注2:色絵:白磁をいったん焼き上げ、その表面に色絵具で模様を描き、もう一度別の窯で焼いて、その模様を焼き付ける技法。

■エピソード
富本憲吉は、濱田やリーチなどとともに民芸運動に参加していた作家の一人です。
もともと民芸というのは生活に密着した工芸で、個性を抑制したものです。 しかし、富本は「民芸でも作家というからには個性がなきゃいかん。」と主張しました。
日本民藝館でも個人作家の展示室があったことから、大原總一郎が倉敷民芸館に「個人作家の作品を展示する部屋を作っては」と持ちかけました。 しかし、これは実現することが出来ませんでした。
「それなら大原美術館でやろう」ということになり、總一郎自ら孫三郎の代から支援をしてきた、濱田、リーチ、河井、富本の4作家を選び、工芸館が建設されました。


(参考文献)
「大原美術館と私」 藤田慎一郎


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