三色釉扁壺”

■解説
河井寛次郎(1890-1966)は、現在の島根県安来市に生まれました。1910(明治43)年、東京高等工業学校窯業科に入学。 2学年下に浜田庄司がいました。卒業後の1914(大正3)年、京都市立陶磁器試験場に入り、釉薬を中心とした研究をおこないました。 試験場を辞めたのちは、五代清水六兵衛の顧問をつとめながら、浜田とともに、各地の窯をおとずれています。
1920(大正9)年、30歳のとき、河井は京都市五条坂にみずからの窯をきずき、鐘渓窯と名づけて作陶を開始します。 当初は、中国の古典陶磁の技法をもちいて制作していました。 しかし、1924(大正13)年、浜田を介して、柳宗悦との交友がはじまってからは、生活の中からうまれた陶器をめざすようになりました。この柳、浜田、河井の出会いが、民藝運動へと発展してゆくのです。
河井は多様な技法をつかって制作しました。ろくろだけではなく、自由な手作りや型の使用による制作もおこないました。釉薬の使用も変化にとんでいます。
この「三色釉扁壷」は、河井の晩年に制作されました。型をつかって造形され、釉薬は打釉(注1)という技法が用いられています。 黒、緑、赤の3色の釉薬が抽象画のようないろどりを添えています。


注1:打釉 釉薬を無造作に表面にたたきつけるように投げかける手法

■エピソード
河井は、浜田やバーナード・リーチらとならんで民芸運動に参加した作家のひとりです。 民芸運動に参加していた作家たちと大原美術館とのかかわりは、WEB展示のバーナード・リーチや浜田庄司でもご紹介していますが、河井と大原孫三郎や児島虎次郎との親交は、それよりずっと以前からありました。
1923(大正12)年の「第三回現代仏蘭西名画家展」開催のおり、児島が3回目の渡欧のさいに収集したエジプトやオリエントの古美術を展示した「エジプト、ペルシャおよびトルコ古陶器展覧会」も同時に開かれました。
河井はそこで開かれた講演会で講師として招かれ、「エジプト古陶器の話」という題で講演しています。
また、現在工芸館河井室に展示されている作品の中には、大原孫三郎が京都の河井の家を訪ねたとき、河井が「気に入らない」といって家の縁側の下に捨てた作品の中から、孫三郎が選び、持ち帰ったと言われる「緑釉六方鉢」もあります。(注2)

注2:藤田元館長より直接聞く。



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