児島虎次郎自画像”

■児島虎次郎年譜
1881(明治14)年
4月3日、岡山県川上郡下原村(現在の高梁市成羽町)に児島弥吉、雪の次男として誕生。 生家は「橋本屋」と称して旅館、仕出し業を営んでいた。

1885(明治18)年
岡山師範学校、岡山中学校の図画教師であった松原三五郎は、虎次郎の画才に驚き画家になることを勧めるが、祖母の鶴が強く反対した。

1886(明治19)年
4月、尋常高等確摯小学校初等科六級へ入学。
10月、父弥吉、コレラのため38歳で死去。

1901(明治34)年
画家志望を反対していた祖母の許しを得て上京。昼は白馬会研究所に、夜は暁星中学校の夜学に通ってフランス語を学んだ。

1902(明治35)年
9月、東京美術学校西洋画科選科に入学。教授には黒田清輝、久米桂一郎、岩村透、助教授には藤島武二がいた。
この年はじめて倉敷の大原家を訪ね、孝四郎、孫三郎の親子に会う。以来大原家の奨学生となり、1929年の死に至るまでその援助を受けることとなる。

1904(明治37)年
成績優秀につき、2年目に4学年を越えて卒業。引き続き同校研究科に学ぶ。同期生には熊谷守一、和田三造、青木繁、山下新太郎らがいた。

1907(明治40)年
3月、上野で開かれた、東京府主催勧業博覧会美術展に、黒田清輝のすすめで「なさけの庭」、「里の水車」の2作品を出品。前者は1等を受賞し、皇后陛下のお気に召して宮内省のお買い上げとなった。
この快挙に大原孫三郎は喜び、5年間のヨーロッパ留学を許した。

1908(明治41)年
1月、日本を発ち3月にフランスに到着。はじめにパリに滞在する。やがて閑静な郊外のグレを気に入り、ほぼ1年間をそこで過ごした。

1909(明治42)年
7月、ベルギーのゲントに赴き、東京美術学校時代の友人、太田喜二郎の案内で美術館などを見学。
10月、太田が通っていたゲント美術アカデミーの校長、ジャン・デルヴァンの強い勧めもあり、同校へ入学。この街の雰囲気と美術学校の教育方針が気に入り、3年間を過ごした。

1912(大正元)年
2月、美術アカデミー、ジャン・デルヴァン校長の紹介でアマン=ジャンと出会い、作品の批評を受ける。
4月、ゲント美術アカデミーを首席で卒業。
アマン=ジャンを訪ね「髪」を購入。
11月、帰国。倉敷北郊の酒津に居を定める。

1913(大正2)年
4月、石井十次の長女、友と結婚。

1918(大正7)年
3月、第1回の中国、朝鮮旅行を行う。上海、南京、北京などで古陶磁類を収集。

1919(大正8)年
4月、東京、大阪で個展を開き、好評を得た。
光風会会員となる。
大原孫三郎のすすめで再び渡欧することとなったが、かねてよりわが国には本格的な西洋絵画のコレクションや美術館がなく、西洋画を学ぶ人たちにとって極めて不便な状況であることを残念に思っていた児島は、その収集を孫三郎に進言する。
5月に日本を発ち、7月ロンドンを経由してパリに入る。

1920(大正9)年
4月、サロン・ド・ラ・ソシエテ・ナショナル・デ・ボザールに出品していた4作品のうち、「秋」がフランス政府に買い上げられ、リュクサンブール美術館に収蔵される。また、日本人として初めて、同サロンの正会員になる。
8月、オランダ旅行中に、孫三郎より「絵を買ってよし。金送る。」との電報を受け、急ぎパリに戻り収集を開始する。
11月にはモネのアトリエを訪ね「睡蓮」を、マティスを訪ねて「マティス嬢の肖像」を購入するなど精力的に動き、この年の終わりまでに27点の作品を購入した。

1921(大正10)年
2月に帰国。
3月27日~30日までの間、倉敷女子尋常高等小学校の校舎を借りて、第1回収集作品による「現代フランス名画家作品展覧会」を開催。全国各地より多くの観衆が訪れ、大きな反響を呼んだ。
9月、同会場で「児島虎次郎氏作品展覧会」を開催。

1922(大正11)年
1月2日~8日まで、アマン=ジャンらが収集した作品に、第1回収集のものを加えた34点にて「第2回現代フランス名画家作品展覧会」を開催。前回と変わらぬ反響を呼ぶ。これを受けて、孫三郎はさらにコレクションを充実させるため、児島に再度収集のための渡欧を命じた。
5月に日本を発ちフランスへ向かうが、途中エジプトに寄り、エジプト古美術を購入している。
8月、パリのベルネーム・ジュヌ画廊でエル・グレコ「受胎告知」購入の仮契約を結ぶ。
以後、ホドラー、クロース、ロダン2点、コッテ、フランドラン、ラ・トゥシュ、カリエール、ゴーギャン、シャヴァンヌ、セガンティーニ、ミレーなどを購入する。

1923(大正12)年
3月11日にフランスを離れるまでの間、モロー、ルドン、ギヨマン、セルジェ、カモアン、オットマン、レールマン、フレデリックなどの大作をヨーロッパ各地で購入している。
今回の収集作品は、今日の大原美術館の中核をなすこととなった。
5月に帰国。
8月5日~18日まで倉敷尋常高等小学校を会場に新収集作品56点による第3回「泰西名画家作品展覧会」を開催。同時に「エジプト、ペルシャ及びトルコ古陶磁展覧会」も開催された。

1924(大正13)年
3月、第3回中国旅行。
11月、東京美術学校教授・長原孝太郎より明治神宮奉賛会の明治神宮外苑聖徳記念絵画館のための作品制作の依頼を受け承諾する。テーマは「対露宣戦御前会議」、奉納者は公爵松方巌であった。

1926(大正15)年
11月、第4回中国旅行。4回にわたる中国旅行のとき購入した中国古美術品が、今日の大原美術館・東洋館のコレクションの基礎となっている。

1927(昭和2)年
明治神宮絵画館の壁画制作を始める。
4月15日~30日、恩賜京都博物館(現京都国立博物館)で「大原コレクション泰西名画展」を開催。4月、帝展審査員となる。

1928(昭和3)年
2月21日~3月12日、東京府美術館(現東京都美術館)で「大原コレクション泰西名画とエジプト、ペルシャ古美術展覧会」を開催。
フランス絵画を日本に紹介した功績に対して、オフィシエ・ド・ランストリュクション・ピュブリック勲章を贈られる。
9月、壁画制作による極度の疲労のため倒れる。

1929(昭和4)年
3月8日、治療の甲斐なく逝去。47年11か月の生涯であった。
6月、孫三郎は児島の死を悼み、彼の業績を永久に記念するとともに、児島の念願としていた西洋美術の公開を実現するための美術館建設を企図した。

1930(昭和5)年
4月23日~5月4日、岡山で「故児島虎次郎画伯遺作展覧会」を開催。
4月、記念美術館建設に着工、10月竣工、大原美術館と命名。大原コレクションと児島虎次郎の遺作を陳列。
11月5日、大原美術館開館式を挙行。11月25日より一般に公開する。

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