別府の港

■解説
吉田苞という作家をご存知でしょうか。全国的な知名度は決して高いとは言えませんが、当地岡山の洋画壇において、彼が果たした役割は忘れることはできません。
吉田苞(1883-1953)は上道郡八幡(現在の岡山市上道)の生まれ。東京美術学校西洋画科、続いて同研究科で黒田清輝、藤島武二に学びました。 お気付きの方も多いかと思いますが、ここまでの経歴は、当館のコレクション形成に大きな役割を果たした児島虎次郎とそっくりです。 実際吉田の活動は児島の存在と切り離しては語れません。
1912年に児島がヨーロッパ留学から戻ったのを機に、児島と吉田は「岡山洋画研究会」を発足します。 この会は、相互研究を目的に岡山在住の洋画家が集まって結成した岡山初の洋画研究団体で、ふたりはその中心メンバーでしたが、児島が個人の制作に没頭したことから、実質的にこの会の運営や後進の指導に力を発揮したのは吉田でした。
児島は日本で洋画を学ぶ人々に本物の西洋絵画を見せてやりたいという思いで、大原孫三郎に西洋絵画の収集を願い出たといいます。 児島が西洋絵画を日本に持ち帰ることで成そうとした後進画家の育成を、吉田は研究会での直接指導をもって成したともとれます。 そういう意味では、岡山洋画壇の発展にとって、児島と吉田は両輪の役割を果たしたと言えるのではないでしょうか。
画風においてもふたりの間には共通するものを見て取れるでしょう。 この「別府の港」に見られる光への関心、点々と細かに並べられたタッチは、印象主義、あるいはベルギーのルミニスムの影響を受けた児島のそれと非常に近いものがあります。 しかし、この色彩の「強さ」は吉田特有のものといえるでしょう。 この作品は赤と青という対比的な2色を基調としていますが、注意深く見ていくと、この2色のコントラスト(対比)の強さで港に降り注ぐ光の明るさを表し、また一方では同じ2色混ぜることで生じた濁りで手前の家々におちる影の暗さを表しています。 同じ色を使いながら、その使い方で光と影を描き分ける面白さが、この作品の大きな魅力であり、同時にこの時期の吉田の個性であるといえるでしょう。
(参考文献) 
『岡山の絵画五〇〇年―雪舟から国吉まで』 1988年3月18日 岡山県立美術館

■エピソード
吉田は、岡山市にいた児島虎次郎の親友の一人でした。
児島が1929(昭和4)年になくなった時、対露戦争御前会議の壁画(注1)の制作中でした。 吉田は、周囲の推薦によって、児島が描いていた下絵をもとに、その意志をついで壁画の制作を続行しました。
1930(昭和5)年6月下絵を描き上げ、1931(昭和6)年2月から本カンバスに描き始め、1934(昭和9)年2月に完成させました。
実に五年間という長い間、苦心を重ねて制作にあたりました。児島が1925(大正14)年に壁画を描くことを決心してから、約10年弱の年月がかかっています。
また、吉田は大原孫三郎の信頼も厚く、後年孫三郎がなくなった後発行された、地元紙の追悼号に掲載された、葬儀の祭壇の絵を描いたのも吉田でした。
注1:この作品は、現在、明治神宮外苑聖徳記念絵画館(東京)に展示されています。


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