サーシャ

■解説
山本鼎(1882-1946)は、愛知県岡崎市生まれ。10歳のとき、東京の木版工房に弟子入りし、木版の技術を習得。 しかし、彼は木版職人にあきたらず、油絵の勉強をするために、1902(明治35)年、東京美術学校西洋画科に入学します。同級には、児島虎次郎や青木繁らがいました。
卒業後、山本は雑誌にさし絵や文章をよせるなどの活躍をはじめます。1907(明治40)年には、石井柏亭らと雑誌「方寸」を発刊。それまでの版画は、「下絵を描く」「彫る」「刷る」作業が分業制でした。 彼は、「方寸」で、その作業をすべてひとりで行う「創作版画」を提唱し、その後の版画に大きな影響をあたえたのです。
1912(大正元)年、山本はフランス留学に出発しました。ヨーロッパの風土の中、油彩画や版画を熱心に制作します。1916(大正5)年に、ロシアのシベリア鉄道経由で帰国。 その途中、モスクワで児童創造美術展と農村工芸品展示所を見学し、感動します。このことが彼の帰国後の活動を大きく決定づけました。 かねてから山本は美術をひろく民衆に普及させ、日本の文化の水準を高めることが必要だと感じていました。帰国後、彼は2つの運動をはじめます。 子ども自身の個性を尊重した美術教育をめざす「児童自由画教育」。農民が農作業のひまな時期を利用して工芸品を制作することによって、美術に親しみ、その上副収入を得られることをめざした「農民美術運動」。 この2つの運動は、しだいにひろがっていきました。また、彼は描きやすい画材の研究をかさね、クレパスを考案したことでも知られています。
この「サーシャ」は、モスクワ滞在中に制作された山本の代表作の一つです。ひまわりを背景にした農村の少年をモデルに、かろやかな筆致で描かれています。
(参考文献)
「山本鼎生誕100年展」図録 (上田市山本鼎記念館) 1982年
「山本鼎収蔵作品集」 (上田市山本鼎記念館) 1995年

■エピソード
山本鼎は、東京美術学校時代の児島虎次郎の同級生です。
二人は美術学校入学試験で知り合い、すぐに親友となりました。
山本は虎次郎について、次のように回想しています。
「当時美術学校の教室は一種の梁山泊で熊谷守一、青木繁、和田三造などといふ英雄が、活躍していて、チヤンと制服を着て来る連中は低脳あつかひにされたような有様でしたが、其中にあつて児島君は、いつもキチンと制服を着て来る人でした。」(注1)
虎次郎は、真面目で寡黙。教室では孤立した存在だったようですが、どちらかといえば真面目であった山本とは馬があったようです。
二人の親交は児島が死を迎えるまで続きました。

注1:アトリエ 1929年5月 山本鼎


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