緋毛氈

■解説
満谷国四郎(1874-1936)は、現在の岡山県総社市の出身。東京の不同舎に学び、同郷同門の鹿子木孟郎などともに、1900(明治33)年のパリ万博を目指して、アメリカ経由で初めて渡仏。 しばらくパリの画塾で過ごした鹿子木とは対照的に、満谷は各地をめぐり1年ほどで帰国した。 その後、日清、日露の二つの戦争に取材した時事的な作品や、労働者家族の日常などを主題に取り上げた絵画を手がけ、開設されたばかりの文部省美術展の審査員を務めるなど早くから高い評価を得る。
その満谷が1911(明治44)年に二度目の渡欧を成した際に経済的な援助をしたのが大原孫三郎。 そしてこの滞欧の際に、ピエール=オーギュスト・ルノワールを訪ねて手に入れたのが、現在大原美術館収蔵の《泉による女》であった。
この二度目の渡仏の際に、満谷はそれまでの作品スタイルを一新する。当初は画塾アカデミー・ジュリアンに通って西欧アカデミズムの基本たる裸婦描写の完成度を一挙に高める。 しかしそれから一転して、擦れるような片ぼかしで対象物の形を簡略にとらえた作風へと変化する。 そこにはピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、ポール・ゴーギャン、ナビ派、そしてアンリ・ルソーなど、ほぼ同時代と言える画家たちの強い感化を諸々見て取ることができよう。
こうして西欧の同時代美術を十分に学習した満谷が次に向かったのが日本人ならではの油絵とは何かという問題であった。 そこで満谷が出した答えは、明快な印象を与える装飾的な画面の中に、日本人の裸婦を描くスタイルであった。この作品《緋毛氈》はまさにその代表作である。

■エピソード
岡山県出身の画家である満谷は、ヨーロッパ留学にあたり大原家から援助をうけるなど、大原美術館に縁の深い画家です。 満谷の援助をしていた関係で、大原家には満谷の下絵や作品が多くありました。《緋毛氈》の下絵もあり、總一郎は子供のころから親しんできたのでしょう。 東京画廊の山本がこの作品を持ちこんだとき、總一郎はすぐに「是非欲しい」といったといいます。(注1)


注1:藤田慎一郎「画商・山本孝さんとの対談」『大原美術館と私 50年のパサージュ』山陽新聞社、2000年、163-165頁。


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