都会

■解説
36歳の若さで亡くなった松本竣介(1912-1948)は、満州事変勃発以来15年にも及んだ戦時下に生きた画家である。
岩手県盛岡市で幼少期を送った竣介は地元の名門盛岡中学への入学式の日に脳脊髄膜炎による激しい頭痛と高熱に見舞われて聴覚を喪失。 1年半後に復学した竣介に、兄は油絵具一式を贈る。やがて竣介は中学を中退、1929(昭和4)年に上京し本格的に画家を目指す。
竣介が画家の卵として歩み始めた時期は、西欧、特にパリから様々な美術状況が紹介された。若き竣介もポール・セザンヌに倣い、アメデオ・モディリアーニに心酔するという状況であり、 1934(昭和9)年に開催された福島繁太郎コレクション展では、現在は大原美術館の所蔵品となっているジョルジュ・ルオーの作品に強い感化を受ける。
1938(昭和13)年頃から、不透明絵具に透明絵具を重ねた美しい絵肌の上に、独特の線描を用い、洋装にショートカットのモガや、西欧風の建築など、 モダンな都市文化を表す図像を散りばめたシリーズを手がける。 同時にこのシリーズでは、モダンな東京の華やぎだけではなく、その暗面を示す泥酔者や戦時下の世相を映す軍隊の列など、生々しい現実を伝える、 社会告発的な図像もしばしば描かれている。
《都会》は、こうしたモンタージュによる都市風景の最後の作品で1940(昭和15)年の二科展出品作。この作品の公開から約1年後、日本は真珠湾攻撃によって太平洋戦争へ突入した。
竣介はここに至る3年間の連作の中で、次第に都市風景の現実を表す社会告発的な要素を減らしていった。 《都会》では、建物は抽象的な線のみが抽出された匿名のものとなり、人物も中央にたたずむ女性一人と、あとは背を向けて立ち去ろうとする人々だけとなっている。


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