
■解説
前田寛治(1896-1930)は、現在の鳥取県東伯郡北条町に生まれました。1916(大正5)年、東京美術学校西洋画科に入学します。在学中に、キリスト教徒である内村鑑三の講演を聴き、それから4年間、彼の思想に傾倒することになります。また、倉吉町に同志と「砂丘社」を創立しました。
1921(大正10)年、前田寛治は美術学校を卒業した年に帝展(注1)と二科展に同時入選しましたが、他団体への出品を認めない二科展からは作品を撤去されました。
1922(大正11)年12月、前田は約2年半にわたるフランス留学に出発します。パリでは、留学中の他の日本人画家ともさかんに交流しました。
そこで同郷の社会思想家、福本和夫(注2)に出会い、マルキシズムの強い影響を受けます。このころから、前田は、クールベの写実主義に強くひかれるようになりました。
帰国後は、帝展と1926(大正15)年に同志と創立した「1930年協会」で活躍しますが、病のため33歳の若さで亡くなります。
この「二人の労働者」は、マルキシズムの強い影響のもとに描かれました。人物の前方へ向けられた視線、強く握られた拳には、動かしがたい強い決意があらわれています。
画面下部の床の不安定な格子模様が、いっそうそれを強調しています。
■エピソード
前田は、倉敷で開催された1921(大正10)年の「現代仏蘭西名画家作品展覧会」、1922(大正11)年の「現代フランス名画家展覧会」(注3)を見学し、たいへん感銘を受け、1922年にはフランス留学をはたしました。
そこで同郷の福本和夫(注2)に出会い、そのマルキシズムの影響を受けて制作されたのがこの作品です。
作品の上部には、「Lodokaikyu wa jikaku su Seizon o fugoli nalu shakai ni shiilaletsutsu alukoto o(労働階級は自覚す、生存を不合理なる社会に強いられつつあることを)」とローマ字で書かれています。
前田は、ヨーロッパから帰国後、帝展に出品するため、この部分を黒く塗りつぶしてしまいました。
ところが、いま大原美術館にならべられているこの作品では、塗りつぶしたローマ字の部分を読みとることができます。
じつは、1954(昭和29)年に購入したあと修復にあたって、当時の館長藤田慎一郎と修復家の黒江光彦が相談し、「前田が文字を書いたのは事実だから、見せるべきだ」として、塗りつぶした部分を洗って、現在のように読めるようにしたのです。(注4)
注1:帝国美術院美術展覧会。
注2:前田とは中学の同級生。ドイツに行ってマルキシズムに傾倒する。のちに福本イズムで有名になった理論家。
注3:児島虎次郎は、2回目の渡欧で作品収集を行った。帰国後、収集作品による展覧会を倉敷で2回開催している。
1回目は、1921(大正10)年3月27日~30日までの4日間開催。児島が自ら選んで購入してきた作品27点が展示された。
2回目は、かねてアマン=ジャンと斎藤豊作に収集を依頼していた作品20点に、第1回収集のものを加えた34点により、1922(大正11)年1月2日~8日まで7日間開催。そしてその後、本格的な収集が1922(大正11)年~1923(大正12)年へと続きました。
注4:藤田元館長より直接聞く。