二人の労働者

■解説
第一次世界大戦が終わり1920年代を迎える頃には、パリへと渡る日本人画家の数は爆発的に増加した。 それも、今なら大学院クラスの学生たち、中には国内でさしたる教育を受けていない者までもが遠い異郷パリへと渡り、最盛期には三百人とも五百人ともいわれる日本人画家がパリにいたと言う。
パリに暮らす日本人画家たちの中でも、意気盛んであったのが、パリ豚児と自称した前田寛治(1896-1930)、里見勝蔵、佐伯祐三、中山巍、川口軌外、児島善三郎などのグループだった。彼らは制作に没頭し、 またしばしば集ってはそれぞれの画作について、そして日本の美術界について語りあい、また大いに騒いで気勢をあげた。
その中心となったのが前田寛治である。前田は、1921(大正10)年の東京美術学校卒業の年に、すでに帝展と二科展に入選するなど早くから注目を集めた逸材。 1922(大正11)年1月に倉敷で公開された児島虎次郎収集の西欧絵画、すなわち後の大原美術館の礎となる作品の公開を見てパリへの思いを強くし、その翌年に渡仏する。
当初はフィンセント・ファン・ゴッホ風のスタイルを試み、次いでパブロ・ピカソやアンドレ・ドランが当時試みていた重厚で安定した人体表現に挑む。 一方でギュスターヴ・クールベの思想にも共鳴するが、その社会主義的な思想への傾倒には、中学時代の同級生で、後に日本の左翼思想の主導的な理論家として活躍した福本和夫が、 留学先のベルリンからしばしばパリを訪れて前田と交友したという背景が挙げられる。
《二人の労働者》は渡仏直後の前田の置かれた状況をよく語る作品である。 その構築的な人体の表現はピカソなどのスタイルに倣ったものだが、何より労働者という主題が彼の思想の立ち位置をよく示している。 この画面の上部には「Lodokaikyu wa jikaku su Seizon o fugoli nalu shakai ni shiilaletsutsu alukoto o(労働階級は自覚す、生存を不合理なる社会に強いられつつあることを)」 とローマ字で書かれている。前田にとって、これほど直截な思想表明がなされた作品は他にない。 この文字は、帰国後の発表に際して、当時の日本の社会状況を背景に、一文字ずつ塗り潰されて画面上から消されていたが、大原美術館への収蔵後に元のとおりに修復された。


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