耕到天

■解説
藤島武二(1867-1943)は、鹿児島藩士の子として鹿児島に生まれる。 郷里で日本画を習うが、洋画研究を志して1884(明治17)年に上京。開明期のことゆえすぐには洋画教育を受ける場に巡り合えず、 1890(明治23)年に至ってようやく本格的にその研鑽にはげむこととなる。 その画技は当初から高く評価され、1896(明治29)年に同郷の黒田清輝が東京美術学校に新設された洋画科の主任教授となると、その招きで同校の助教授となる。 1905(明治38)年からの5年間は文部省の留学生としてフランス、イタリアに過ごし、帰国後は東京美術学校教授となって、以後長年にわたり多くの後進を育成する。
藤島はその長い画業を通じて、豊かな色彩感覚と、闊達な筆致によって的確に対象を描き出す画技を磨きあげた。 同時にその歩みは、日本と西洋のそれぞれの絵画の特徴を咀嚼し昇華する歩みでもあった。その数多くの秀作の中でも、本作品《耕到天》は藤島円熟期の代表作である。
山上に至るまでの耕作地が緑色や鶯色のパッチワークのように構成され、山里には今が盛りと桃色の花が咲き誇り、柔らかなアクセントを添える。 実景に依拠し、山の量塊を損なうことなく、近景から遠景を破綻なく連続させているが、そうした再現説明的な描写にとらわれずに大胆に単純化させられた画面は、藤島の練達の技を感じさせる。
明治以来、国を挙げて近代化=西洋化に邁進し、画家たちは西洋をその本場と見据えて作画に励んだ。 しかし1930年代に入ると、西洋絵画が日本へと本格的に導入されてからすでに半世紀近い蓄積が出来たうえ、第一次世界大戦後に多くの画家が渡欧し、西洋絵画をより深く知ったこともあって、いつまでもその模倣に終始していてはいけないという意識が芽生える。 そうした状況の中で多くの画家が、日本人ならではの油絵とは何か、という問いかけに応じようと制作に励むが、《耕到天》はその見事な到達点と言えるだろう。
もっともこの作品を日本の独自性を主張した絵画という面からのみ語ることはできない。 この《耕到天》という主題は、日本を訪れた二人の中国人が平地の狭さゆえ高く山上まで耕して畑にする風景を見て、「耕到天是勤勉哉 耕到天是貧哉」と、日本の国土の貧しさと日本人の勤勉について語った言葉を取り上げているからだ。
日本独自の絵画を描くという目的は、西欧列強と伍する国力を身につけ、その仲間入りを果たしたいというナショナリズムの高揚と、それを巧みに誘導した日中戦争、そして太平洋戦争へと連なる戦時下の精神に、ともすると容易く同調するものであったと言える。 藤島がのどかな春の景色に託した思いとは、強い緊張感を宿したものでもあるのだろう。

■エピソード
この作品は、東京画廊の山本孝が大阪郊外のコレクターより買い取ってきたものです。 大原總一郎は、藤島の革新性を「日本のセザンヌだ」として高く評価していました。 山本「『お金を持っていけば売ってくれるような話になっている』と言うので、雨の中、志水[南画廊]と一緒に車でうかがった。 (中略)執事のような人から作品を受け取り、毛布でぐるぐる巻きにした。 (中略)やっとの思いで大阪に着いて、まず倉敷レイヨン[現クラレ]の本社に運び込んだものの、実はまだ大原さん[總一郎]には何も話していない。 (中略)会議が終わるまで待って作品をお見せしたら、凄く気に入られた」。 (中略)山本「志水がね、『大原さんに断られたらどうしようか、この雨では持って帰るといったって場所もないし』と心配したが、思いがけずいっぺんで気に入られた」。(注1)
画商冥利につきる、と山本孝は話しています。
藤島武二は、児島虎次郎の東京美術学校時代の恩師でもあります。

注1:藤田慎一郎「画商・山本孝さんとの対談」『大原美術館と私 50年のパサージュ』山陽新聞社、2000年、167-170頁。

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