信仰の悲しみ

■解説
関根正二(1899-1919)は、福島県白河市で農業と屋根茸職を営む家庭に生まれた。 一家の上京にともない深川の東川小学校に転校したが、その同級に伊東深水がいた。1914(大正3)年、関根は、深水が勤める東京印刷株式会社図案部の給仕となる。 芸術家肌の部員が多く、外国の画集や美術雑誌が置いてあるような職場であった。
関根ははじめ日本画を描いていたが、やがて洋画に転じ、本郷絵画研究所にも通う。 もっともほぼ独学であり、オスカー・ワイルドなどの新しい芸術観に心酔し、放逸なデカダン気風に染まる。 やがて会社を辞し、山梨、長野へと無銭旅行に出る。その途上で河野通勢に会い、ルネッサンス大家の画集に感銘を受けて以後、素描の腕を磨いた。 1915(大正4)年の第二回二科展に初入選をし、以後も同会に入選を続ける。また、同展に特別陳列されていた安井曾太郎の滞欧作品を見て強い影響をうけ、 以後しだいに彼の作品は色彩を豊かにしていく。
1918(大正7)年5月に蓄膿症の手術をするが、その後の経過が悪いうえ、失恋も重なってノイローゼ気味となる。 しかし制作活動においては、高揚した状態で良作をものし、本作《信仰の悲しみ》《姉弟》《自画像》を出品した第五回二科展で樗牛賞を受ける。
本作に描かれているのは、まさに関根にしか見ることのできなかった幻の光景である。 本作について関根は、東京の日比谷公園で休んでいる時、公衆トイレから、こうした人々の列が金色に輝きながら出現したとし、こう述べている。
「朝夕孤独の淋しさに何物かに祈る心地になる時、ああした女が三人又五人、私の目の前に現れるのです」
当初、関根は本作を《楽しき国土》と題していたが、伊藤深水が、楽しいどころか、悲痛な人間の悲しみを感じると述べたところから、改題して二科展に出品された。
当時、極貧であった関根にしては高価な絵具を用い、また作品の大きさも彼にしては最大に近いもの。 暖かく深みがありながら、どこか宿命的な業苦を背負ったかのような印象を与える赤。 個人的な幻視ながら、より広大な神話的世界にも通じるかのような印象をあたえる。この作品を描いた翌年、関根正二は、わずか20歳でこの世を去る。

■エピソード
20歳で夭折した関根の、19歳のときの作品です。 大原美術館に展示されている作家のなかでは、最年少です。 東京のあるコレクターが持っていたもので、1964(昭和39)年、東京画廊の山本孝が譲ってもらい、大原美術館に持ち込みました。
その当時、若くして亡くなった関根は、あまり評価されていませんでしたが、大原總一郎は数日眺めたあと購入を決断しました。
「大原さんはこの作品をことのほか気に入り、『関根の数少ない絵の中でも傑作だから、大切にするように』と言っていた」と当時を知る元館長の藤田慎一郎が述べています。

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