広告“ヴェルダン”

■解説
佐伯祐三(1898-1928)は、1918(大正7)年に東京美術学校西洋画科に入学。在学中に池田米子と結婚し、娘彌智子が生まれる。 1923(大正12)年に東京美術学校を卒業すると、一家を挙げてパリへと渡る。第一次大戦後に数多くの日本人画家がパリへと渡り始めたこと、そして関東大震災に見舞われ、 経済的に苦しいのならどこで暮らすのも同じという判断が佐伯をすばやい行動に駆り立てたようだ。
 1924(大正13)年正月早々に到着したパリでは、里見勝蔵、中山巍、前田寛治など美術学校関係の友人たちに出迎えられ、やがて一家はパリ郊外クラマールに居を据える。 美しい景色に囲まれたこの家の隣には小島善太郎と川口軌外が住み、週末にはパリ市街地に暮らす仲間たちも集って日本人画家たちの賑やかな交流の場となった。
 渡仏から半年した頃、佐伯は里見に伴われてモーリス・ド・ヴラマンクに出会う。これを契機に、それまで日本国内で培ったスタイルを払拭し、勢いのある筆致で風景を捉える作風へと大きな転換を果たす。 当初は、クラマールやヴラマンクの暮らすオーヴェールなど、パリ郊外の風景を対象とし、遠景まで視野を届かせた作品を手がけていたが、次第に描き出す対象はパリ中心市街地へと迫り、 建物や街頭の一角がクローズアップされた、佐伯独自のスタイルが確立されていく。
 結核を煩う彼の身体を心配した生家の家族たちに促されて1926(大正15)年3月に帰国するが、1年半ほどでパリへと戻る。 より闊達自在に筆を活かし、描き出す対象の形態を大胆に簡略化した作品を次々と描きあげるが、その勢いある筆致は、街頭の看板やポスターの文字に憑依して画面中を躍動する。
《広告“ヴェルダン”》は、この時期の代表作。ヴェルダンとは、第一次世界大戦でドイツ軍の猛攻をフランス軍がくい止めた要塞都市の名で、同名の映画ポスターの文字が画面右手に大きく描かれている。
二度目にパリに渡って以降の佐伯は、その猛烈な制作によって神経を衰弱させ、さらに結核を悪化させる。1928(昭和3)年6月に病院から抜け出し、クラマールの森で自殺未遂、そして8月に31歳の若さで帰らぬ人となる。 さらにその半月ほど後には6歳になる一人娘も病没するという悲劇も重なる。
そのヒロイックで感傷的な作風に、こうした実生活のあり様が絡まりあって、佐伯は日本近代絵画史上でも特異な存在感を維持し続けている。

ページトップへもどる まえへもどる