
■解説
考えている余地はなかったに違いない。
ただ目の前に横たわるものに目を据え、魅入られたように彼は筆を走らせる。
激しい筆だ。
見かけを言うのではない。何ごとか、目の前の事態に対するやり場のない感情をそのままキャンバスにぶつけたような、内からの激しさである。
描くということ自体がもともと激しい行為なのかもしれない。
荒れ狂う筆のうちにしっかりと対象はとりこまれた。だが結局のところ彼の心は定まらない。
筆と筆のぶつかりあいのうちに彼は漂流する。
描くほどに、描く者の内部には空洞が広がってゆく。そのことすら気づかずにおそらく夢中で彼は描いたのである。
こういう絵を、専門家にならって表現主義的あるいはフォーブ風と呼んでみてもあまり意味はないだろう。人間だれしも、ある感情の極みにおいて視界を塗りつぶすあらしのような絵を描く。様式の問題など初めから終わりまで出る幕はない。
子供の死を前に、そういう絵を四十七歳の熊谷守一は描いた。
生活はどん底だった。風邪の子供を満足に医者へも連れて行けない。二男の陽が手遅れになった。満三歳にも満たぬ命だった。
「絵を描いて」と、妻は何度も懇願した。絵さえ出来れば何とか金はつくれる。だが彼は描けなかった。周りからいくら責められようが出来なかった。
そんな男が、子供のまくら元で突然描き始める。これまで描けなかったことなど忘れたように猛然と彼は描いた。そうして三十分ほどで筆を投げ出した。
九十一歳のとき熊谷は回想している。幼くして逝った子のことを考えると、四十年も過ぎた今になっても胸のしめつけられる思いがする、と。
さらに数年後に語っている。子供がこの世に残す何もないことを思って描き始めたのだ、と。だが描いているうちに「絵」を描いている自分に気がつき、嫌になってやめたのだと。
描きながら、「おれはこんなところで絵を描いている」と思って彼はがく然とする。熊谷守一という人物の要諦は、こういうところにある。
死の床にあるわが子を描く。それを、絵かきの<業>と呼ぶこともできる。平然と職業意識を装うこともできる。だが熊谷守一は、そこで立ちどまって「おれは何をしているのだ」と問う。苦しんだはずのわが子を描くという所為に自ら打ちのめされるのだ。
描くことの<業>だって? 甘ったれるんじゃない―という声を熊谷は耳の奥で聞いたに違いない。美術だの文学だのの芸術ごとが食いものにしている人間普遍の感情を、彼は生涯いつくしんだようにみえる。
まず生きることがあった。その後に描くことがあった。描くことは生きること、なんていう気の利いたせりふは彼には無用だった。
熊谷にとっての良きもの、それは子供だった。あるいは鳥や虫や草花だった。つまり彼の価値からはずれていたのは「大人」ということになる。
異母兄弟の多い複雑な家に生まれ、大人のふるまいを見て育った熊谷は「もう小さい時から大人のすることはいっさい信用できないと、心に決めてしまったフシがあります。」
と言っていた。
「そのころから人を押しのけて前に出るのが大きらいでした。人と比べて、それよりも前の方に出ようというのがイヤなのです。」とも言っていた。
第三回文展の「蝋燭」で褒状を受けた熊谷は、翌年の文展に轢死者を描いた作品を出そうとして搬入を拒否されたといわれる。すなわち「題材不穏」。その直後、生母の死を機に帰郷してそのまま上京せず、材木運びの仕事などをして六年を過ごした。
何年も題材をあたため自信をもって出品した作品が、門前払いをくった。これから評価を固めようという時期に田舎に帰ったのはそんな美術界への失望ゆえではないか、という見方も最近はある。
そうした日々を通して、熊谷は自分の信ずべきものを見きわめ、信ずるに足らぬものを遠ざけ、心の通うものだけで生きるスタイルをおそらく築いていった。
再上京後は二科展に出品したのも、戦後まもなく団体展を離れて一人になったのも、鳥や虫や草花を仲間にひっそり生きたのも、彼には自然のことだった。
郷土喪失者や生活破綻者による歴史でもある近代の美術で、熊谷ほど「まとも」に日を送った作家はまれだろう。そしてこの『陽』は、主義や傾向で描かれてきた近代絵画のなかで、奇跡のように、人間一個の真情のかたちを伝えているのである。
平成13年6月3日読売新聞日曜版「絵と人のものがたり」
編集委員 芥川喜好著 より
この記事の掲載に関しては、熊谷守一氏の著作権者、ならびに読売新聞社より許可を得ています。