陽の死んだ日

■解説
「昭和三年二月二十八日朝 陽ノ死ンダ日 熊谷守一」
画面右下にはこう記されている。陽(よう)とは、この絵を描いた熊谷守一(1880-1977)の次男の名前。
当時、熊谷の一家は困窮を極めていた。三人の子どもがいずれも高熱を出すなかで、この陽だけが、泣き声も立てず、ただ真っ赤な顔をして寝ている姿に胸騒ぎを感じた熊谷は、 急いで質屋に行きとりあえずの金をつくり、その足で氷を買って帰る。 しかし氷で冷やしたくらいでは熱は治まらず、熊谷の言葉を借りれば「最後は意を決して近所の医者にかけ込みました」。
しかし、もう手遅れだった。熊谷は息子に添い寝して子守歌を歌い、庭から木の枝を採って赤い毛布の上に添え、空き缶に蝋燭を立てた。
いつしか、熊谷は息子の死に顔を描き始める。熊谷にとって、息子のためにしてやれることは、絵を描くことしかなかったのだろう。 画家としての修羅となりこの題材にくらいついたのでも、死にゆく我が子の姿なんとかとどめたいと思ったのでもなく、ただただ絵を描くことだけが陽に寄り添ってやれる、 彼なりに最後にできることだったのではないか。
 熊谷守一は、大規模な製紙工場を営み、後に貴族院議員を務めた父のもと、岐阜県に生まれた。 東京美術学校に学んだ後、政府が派遣した樺太探検隊に随行して約2年間も北洋の島々を巡り、記録スケッチを残すなどした。 その後、1908(明治41)年に第二回文部省美術展覧会(以後、文展)に入選、翌年の第三回展では褒状を受け注目を集める。 新進画家として期待を集めるが、続く第四回展に熊谷が送ったのが、たまたま通りかかった踏切で遭遇した轢死した女性の姿を描いた作品であった。 すでに文展への初入選時からこうした主題の出品を検討していたようだが、その作品は題材不穏当として搬入すら拒否されてしまう。 そしてその年、実母が逝去したことを機に故郷に帰り、それからの6年間はほとんど制作をせず木曽の山中に暮らす。
 こうした遍歴から、熊谷の眼差しは死の世界をただ遠く暗いものと見たのでもなく、また好奇の目で事挙げすべきものでもないと見たことが察せられる。 そうした眼差しこそがこの作品を描かせたのであり、そして我が子を失う感情がそのような透徹した眼差しの上で身もだえしているのだ。

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