童女舞姿

■解説
岸田劉生(1891-1929)は、東京銀座で父吟香が営む目薬屋に生まれた。 この目薬の名は精錡水と言い、日本最初の和英辞書編纂を手伝った礼に吟香がヘボンから教わった西洋渡来のものだった。 幼き劉生の周りには、こうした文明開化の波に乗ってやってきた西洋文化が満ちていたのである。
1908(明治41)年白馬会洋画研究所に入り本格的に画家を志す。また、雑誌『白樺』を通じて西洋の同時代美術の最新情報を知り、ゴッホ、セザンヌ、ゴーギャンなどに感化され、 『白樺』同人の柳宗悦や武者小路実篤らとも交友を持った。
もっとも劉生は、その後は、西洋の歴史を遡るように、ドイツのアルブレヒト・デューラーやベルギーのヤン・ファン・エイクなどの北欧ルネッサンスの影響を受け、 重厚で写実的な画風へと変化する。1915(大正4)年には草土社を結成し、彼を慕う仲間と共に、写実を徹底した先に現れる不可思議な実在感を追求する。
1917(大正6)年、結核を疑われ湘南海岸に転地した頃から娘麗子をモデルにした作品を手掛けるが、それらは次第に、中国の宋元の絵画や、日本の江戸期の肉筆浮世絵が持つ、 肉と影の交差する粘着質な世界、いわゆる「でろり」とした味を求め始める。 1923(大正12)年の関東大震災によって京都へ移住してからは、古画収集にものめり込み、それにつれて自作の画面もいっそう深みを増すこととなる。
 本作品は、その京都時代の代表作。10歳の麗子の立ち姿だが、赤い絞りの着物や朱と金の扇の描写に、自らの求める味わいに忠実である劉生の姿勢が表れている。

 

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