坑夫

■解説
荻原守衛(1879-1910)は、現在の長野県南安曇郡穂高町の出身。小学校卒業後、いったんは家業の農業を継ごうとしたものの、病気のため断念。地元出身の教育者である相馬愛蔵の妻・黒光所蔵の油絵を見て感動したことをきっかけに、画家をめざすようになりました。
1899(明治32)年、20歳のとき、荻原は上京し、小杉正太郎の画塾・不同舎で学びます。やがて荻原は日本での勉強に行きづまりを感じるようになりました。 1901(明治34)年、新しい境地をもとめ、アメリカに渡航。最初は仕事を転々としますが、半年後ようやく画学校に入学し、一心に勉強を続けました。 この間に、同様に渡米していた彫刻家・戸張孤雁と交流をもちます。
1903(明治36)年、荻原はさらにパリに向かいました。翌年、画塾で絵を学んでいた彼に大きな転機がおとずれます。 ロダンの「考える人」を見た彼は、非常に感動し、彫刻家になる決心をかためたのです。
一度アメリカに戻った後、荻原はふたたびパリで勉強を続けます。そして、1907(明治40)年、ようやく念願のロダンとの対面を果たしました。 数回にわたるロダンとの面会で、彼は自分の芸術の方向をしっかりと見さだめたのでした。
「坑夫」は、この二度目のパリ滞在時に、当時通っていたアカデミーの教室で制作されました。 あまりの出来の素晴らしさに、当時ロンドンに留学していた高村光太郎が、石膏にとって日本に持ち帰るようにすすめたといいます。
1910(明治43)年、荻原は7年もの海外生活を終え、帰国しました。帰国後、「文覚」「女」などの、かずかずの秀作を残したものの、病気のため30歳の若さで亡くなりました。


(参考文献)
「荻原碌山」 (南安曇教育会) 1970年
「荻原守衛と日本のロダニズム展」図録 (碌山美術館) 1997年
「荻原守衛と朝倉文夫展」図録 (徳島県立近代美術館) 1999年

■エピソード
この作品は、1980年に碌山美術館より譲り受けたものです。
碌山美術館は1958(昭和33)年に荻原守衛(碌山)の彫刻絵画及び資料などを展示するために設立されました。
1970(昭和45)年には、新たに収蔵庫を設け、日本近代彫刻の流れと展開を明らかにする目的で、碌山に関係のある諸作家の作品を参考品として収集するため、 荻原守衛と同時期に渡仏し、活躍した高村光太郎の初期の作品が参考資料として最も価値があるものとして、大原美術館所蔵の高村光太郎作「腕」の複製を作り、展示したいとの要望がありました。
様々な準備を整え、1980(昭和55)年に「腕」の複製が完成し、お礼として「坑夫」の複製が寄贈されました。
夏目漱石の小説に「二百十日」というのがあります。荻原はこの小説を読んで感動し、友人と面白がって「碌さん」、「圭さん」という二人の登場人物の名前で呼び合っていました。 それが「碌山」となり、いつしか荻原の号になったようです。


(参考文献)
碌山美術館 高村光太郎作「腕」関係 往復文書
「荻原碌山」 南安曇教育会刊

ページトップへもどる まえへもどる