ロダン

カレーの市民―ジャン=デール

■解説
オーギュスト・ロダン(1840-1917)は、パリ生まれ。 15歳のとき、素描を学び、彫刻家になることを決意。 国立美術学校を3度受験したものの、失敗し入学をあきらめます。 1862年、22歳のとき、姉をなくした悲しみのあまり、修道院に入会。 ここで彼の才能を惜しんだ神父のすすめにしたがって、彼は再び彫刻家の道を歩むことになりました。 世に認められるまでの、ロダンの道は、決して平たんなものではありませんでした。 彫刻家や装飾家の助手などをして働き、下積みの時代を長く経験。 1877年、37歳のとき、サロンに出品した「青銅時代」は、そのあまりにも写実的な表現のため、生身の人間から型取りしたのではないかという疑惑がもちあがりました。 1880年、40歳のとき、この「青銅時代」がフランス政府買い上げになったころから、ロダンの力量はしだいに認められるようになりました。 以後、パリ装飾美術館の扉「地獄の門」、バルザックなどの文豪の記念像の注文をつぎつぎ受けるようになりました。 こうして、ロダンは多くの習作を制作しながら、人間の本質にせまる、すぐれた作品を残していったのです。


カレーの市民―ジャン=デール
「カレーの市民」の記念碑は、イギリス・フランス間の百年戦争(1337~1453)のエピソードをもとに制作されました。
1347年、イギリス王エドワード3世は、フランス北部の港町カレーを包囲しました。 王はカレーの市民6名が、町の城門の鍵をもって投降することを条件に、攻撃をやめることを提案。 町はこの条件をのんで、鍵と市民をさしだしました。
それから約500年後、ロダンに制作を依頼したカレー市は、この記念碑を勇気ある英雄たちをたたえるものとして注文しました。
しかし、ロダンは死を前にした英雄たちの、おそれや苦悩をも表現したのです。 そのため、1888年に完成したこの作品を市当局が受け入れ、市庁舎前に設置されたのは、1895年のことでした。
本館正面右側に立っているこの「ジャン=デール」が持っているのは、城門の鍵。 鍵をもつたくましい手、前方をしっかりと見つめるまなざし、直線的な衣の表現は、ジャン=デールのつよい決意をあらわしているかのようです。
※「カレーの市民」の群像は、東京・国立西洋美術館の前庭でご覧いただけます。
(参考文献)
「ロダン展」図録(読売新聞社/美術館連絡協議会/現代彫刻センター) 1998年

■エピソード
「説教する聖ヨハネ」「カレーの市民」の両作品は、1922(大正11)年、児島虎次郎がロダン美術館で交渉し、鋳造してもらったものです。
1939(昭和14)年、太平洋戦争が勃発。1943(昭和18)年夏、ロダンの銅像2体に金属供出命令が出されました。 当時の館長、武内潔真は、直ちに回収免除の申請を岡山県に提出しましたが、免除される見通しは暗いものでした。
日本は、長引く戦争によって多くの労働力が軍や軍需産業に従事し、物資の不足から生活必需品さえ入手困難な状況に陥っていました。
少ない物資は軍需優先。さらに兵器製造のための金属を集めるため、金属類回収令が出されたのです。
美術品、文化的遺産といえども例外はなく、すでにお寺の仏具や釣鐘などが供出されており、 さらには仏像、銅像、鉄びん、文鎮、学生服の金ボタンまで供出しなくてはならないほどでした。
その年の秋、岡山県物資課職員、審議会委員による視察が行われました。 職員、委員の何人かにも供出を惜しむ声があったそうです。 審議会では、その他の供出物件ともあわせた報告書を県に提出しました。
「供出の必要なし」
岡山県が出した決定でした。 岡山県下で約170体の銅像が供出されることとなり、残されたのは大原美術館のロダン2体を含め、7体のみでした。
日本の文化財であってもこの命令が免除されることは稀であった上に、ロダン作品は敵側の芸術作品。 この決定はまさに奇跡的とも言えるのではないでしょうか。
この貴重な作品は、現在も、大原美術館・本館正面玄関の両側で、多くのお客様をお迎えしています。




ページトップへもどる まえへもどる