レールマン

小径

■解説
ウジェーヌ・ラールマンス(1864-1940)は、ベルギーのブリュッセル近郊に生まれました。 彼は、子どものころに脳膜炎にかかって、聴力をうしないました。そのため、話すこともできなかったといわれています。
ラールマンスは生まれ故郷のデッサン学校、次いでブリュッセルのアカデミーで絵を身につけました。 1890年に、ブリュッセルの展覧会に出品し、画壇にデビュー。 その後、アントワープ、ゲントなどのベルギー国内の展覧会、ミュンヘンやベルリン、ウィーンなどの外国の展覧会にも多数出品しました。 また「自由美学」など、当時のベルギーで新しい美術をめざしたグループの展覧会でも活躍しています。
ラールマンスは社会に強い興味をいだいていました。移民、労働者、農民など貧しい生活を送っている人々をたびたびテーマに取りあげています。
この「小径」も、ラールマンスの社会的関心を反映した作品と言えるでしょう。 貧しい身なりをした家族の姿を、透明で強い光のもとで、画面に大きくとらえています。 ポケットに手を入れてうつむき加減に歩く父親、幼い子どもをだく母親、母親によりそう小さな女の子、その家族のあとを慕って歩く犬。 女の子の手に握られている黄色の花束以外に、この家族には何の持ち物もありません。 一家が背にした小径の先には、静かなたたずまいの家々と枯れ木が立つのみです。


(参考文献)
E.Benezit"Dictionnaire des Peintres Sculpteurs Dessinateurs et Graveurs:6" (Librairie Grund) 1976年
「魅惑のベルギー美術展」図録 (姫路市立美術館) 2001年

■エピソード
この作品は、1922年、児島が2度目の渡欧の際、購入したものです。
作品を買う直前、大原孫三郎から「金送る、買物打ち切れ」という電報が入りました。 児島のヨーロッパでの最後の買物は、フレデリックの「万有は死に帰す、されど神の愛は万有をして蘇らしめん」という作品ですが、その二日前に、児島は、 ラールマンスのアトリエを訪ねて本人より譲りうけています。
ラールマンスは、児島のゲント美術学校時代における恩師の一人、ジャン・デルヴァン(1853~1922)の後輩にあたり、デルヴァンと同じ先生に師事していました。 また、「20人会」(注1)という美術グループの解散を受けてできた、「自由美学」(注2)というグループに所属していました。
時間の差はあるものの、新しい芸術に理解を示し、多くの優れた人材を育成したデルヴァンと、新しい芸術を作っていこうとしたラールマンスには、共通点があるようです。
児島はそのことを確信し、この作品を選んだのではないでしょうか。
児島と会った2年後の1924年、ラールマンスは視力も失い、絵を描くことをやめました。


注1:オクターヴ・マウスを中心とする美術家20人を集めて結成されたブリュッセルの美術グループ。 デルヴァンは創立メンバーの一人。1893年に解散した。
注2:20人会の解散をうけて、オクターヴ・マウスを中心に設立されたグループ。新しい表現による美術を指示することを目的とした。




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