ルノワール

泉による女

■解説
古今の数多い芸術家たちのうちでも、ピエール=オーギュスト・ルノワール (1841-1919)ほど率直に女性の美しさを歌い上げた画家は他に例が少ない。 彼は自ら、「自分は女性を描くなら、思わず抱きしめたくなるような女性を描きたい」と述べているが、実際彼の豊麗な裸婦像は、 モデルに寄せる画家のかぎりない愛着をまざまざと物語っているようである。そしてそのことが、ルノワールを、他の印象派の画家たちと決定的に区別する点なのである。
 ルノワールは、フランス中央山岳地帝のリモージュに仕立屋の息子として生まれ、早くから陶器の絵付けなどの職人仕事に従事していた。 それは、家計を助けるためのいわばアルバイトであったが、その少年時代の手仕事を通じて養われた良い意味での職人気質は、生涯を通じて彼の作品の大きな特質となった。 そして、21歳の時、パリの国立美術学校のシャルル・グレールのアトリエに学ぶようになって、クロード・モネ、アルフレッド・シスレーなど、後の印象派の仲間たちと知り合うこととなるのである。
 この時に結ばれた深い友情が、1874年に開かれた印象派の最初のグループ展の基礎となったことは、広く知られている通りである。 そして、ルノワールも、1870年代から80年代にかけて、モネやシスレーと同じように、明るい色彩でイル=ド=フランスの自然をしばしば描き出した。 しかしながら、モネやシスレーと違って、ルノワールは風景だけに没入することは出来なかった。 印象派グループ展に参加していた時代においてさえ、彼の作品においてはしばしば人物が重要な役割を演じているが、1880年代中頃以降、 彼自身の言葉を借りるならば「印象主義をとことんまで追求した」結果、彼が自己の本来の道として戻って来たのは、人物画、特に裸婦のテーマであった。 もちろん、その裸婦は、伝統的なアカデミックな裸婦ではなく、明るい太陽の光に輝く豊麗多彩な色彩の饗宴ではあったが、それと同時に、 すべてが光と色のなかにとけ込んでしまう印象派の世界ではなく、飽くまでも生きた肉体の存在と息使いとを感じさせる人間の世界であった。 自然のなかの裸婦というルネッサンス以来の伝統を受け継ぎながら、ルノワールは、印象派との接触を通して、それに健康な新しい表現を与えたのである。

■エピソード
1914(大正3)年、岡山県出身の洋画家で、大原孫三郎の経済的支援を受け滞仏していた満谷国四郎が、南フランスのカーニュにあるルノワールの別荘を訪ねます。 その訪問は、大原孫三郎の意を受け、作品制作の依頼を行うためのものでした。
おそらくその依頼には、前年に満谷と共にエドモン=フランソワ・アマン=ジャン《髪》の購入を願う手紙を孫三郎へと送った児島虎次郎のアイデアや、 直前までフランスにあってルノワールに師事していた梅原龍三郎の助力も考えられるかもしれません。 またルノワールと面識がなかった満谷をフォローするように、この訪問には、梅原と親しく、またパリの画塾で満谷と面識のあった安井曾太郎、そして小川千甕の二人の画家も同行しました。 その成果として倉敷にもたらされたのが本作です。
その時ルノワールは73歳。重いリュウマチに悩まされ、関節が変形していたため絵筆を持てる状態ではありませんでした。 ですが、その情熱は衰えず、手に絵筆を包帯でくくりつけて描いていました。
依頼は受け入れられ、 それから1年後、すでに帰国していた満谷にかわって、依頼の際にも同行した安井曾太郎ができあがった作品を受け取りに行きました。 1950年の大原美術館20周年記念の座談会に出席した安井は、当時を振り返ってこう話しています。
「巴里のルノワールから手紙がきて、絵ができたから取りに来い、というので、受け取りに行った。…(中略)その時絵がまだ乾いていないので、持って帰るのに困ったね」。




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