モネ

睡蓮

■解説
画面一杯を占めるこの睡蓮の池は、晩年のクロード・モネ(1840-1926)が住んだジヴェルニーの邸の庭に造られたものである。 水面に浮かぶ妖精のようなこの花をかぎりなく愛したモネは、池のほとりにわざわざアトリエを建て、一日中いつでも好きな時にその姿が描けるようにしたという。 少年時代、オンフルールの海岸で遠く拡がる海を眺めた時から、水に憑かれていたモネであったが、1883年、ジヴェルニーに移ってからは、文字通り睡蓮とともに生活する日々の連続であった。 池を描きながら岸も空もなく、ただ水面だけというモネ独特の俯瞰構図も、日本美術の影響とともにこのモティーフに対する彼の愛着をよく示している。 ひとたびこの睡蓮の池に向う時、モネの眼には他の何ものも映らなくなってしまうかのようである。
 それだけに、その水面を見つめるモネの眼は徹底している。水や花はもちろんのこと、そこに映る空や雲の影、樹の葉の反射、微妙な風のそよぎとそれによる水面の変化、 そして何よりも、刻々と変って行く光の効果を、的確に捉えて画面に再現しようとするのである。 同じモティーフを対象として、それに及ぼすさまざまな光の作用を追求したいわゆる「連作」作品は、連作「ルーアンの大聖堂」、「積みわら」、「ポプラ並木」等、 いくつもその例を挙げることができるが、そのなかでも最も多彩で最も豊かなヴァリエーションを見せるのが、この睡蓮連作にほかならないのである。
 印象派運動の中心的存在の一人であったモネは、パリの食料品屋に生まれたが、生まれて間もなく家族と共にル・アーヴルに移り、ノルマンディの広大な空と海を眺めて少年時代を過した。 この港町で、海景画家ウジェーヌ・ブーダンと出会ったことは、その後の彼の生涯に大きな影響を及ぼすことになる。 彼が両親の反対を押し切って再びパリに出て画家を志すのは、ブーダンの刺激によるところが大きかったからである。
 パリに出てからは、一時シャルル・グレールのアトリエに学んだが、そのアカデミックな教育法に飽き足らず、アルフレッド・シスレー、ピエール=オーギュスト・ルノワール、 カミーユ・ピサロなどの仲間といっしょに、印象派のグループを結成し、自己の感覚にのみ忠実な明るい画面を目指した。 印象派のグループそのものは、10年余り続いた後に解体したが、モネはおそらく、グループの誰よりもその精神を最後まで守り続けた画家であった。


■エピソード
1920(大正9)年、児島虎次郎は、親友の画家斎藤豊作と共にパリ郊外のジヴェルニーに住むモネを訪ねました。 当時モネは79歳。 白内障で視力が弱っていましたが、国家的な名声を得て、今なお意欲的な制作を行っていました。 モネは、浮世絵の大胆な構図や色彩を愛し、自宅のいたるところに、浮世絵を飾っていました。 また自宅の庭には日本式庭園の意匠を取り入れるなど親日家として知られていました。
そこで児島たちは、「日本の人々に公開するために是非作品を譲って欲しい」と熱心に頼みました。 モネはその熱意に心を動かされたのでしょう。「今は大作に取りかかっていて多忙だ。1ヶ月したらまた来なさい」といって絵を譲る約束をしてくれました。 1ヶ月後、再び訪ねていくと、モネは「日本の絵描きのために」とこの《睡蓮》をはじめ数点を用意していました。 児島は、その中からモネが15年もの間、手元に大切においておいた本作を選んだのです。 そして児島は、モネの対応へのお礼にと、日本から牡丹の苗木を贈ると約束し、モネを喜ばせたとも伝えらえています。
このジヴェルニーにあるモネの自宅と庭は、今でも大切に守られ、大きな池には美しい睡蓮が咲き誇ります。 2000(平成12)年6月下旬、大原美術館にその睡蓮が株分けされてやってきました。工芸・東洋館入口脇には、毎年、その睡蓮が黄色やピンクの美しい花を咲かせます。


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