
■解説
印象派の主要な画家であるクロード・モネ(1840-1926)は、パリで生まれ、幼少期をセーヌ河口の港町オンフルールで過ごしました。
そこで海景画家ブーダンに出会い影響を受けたモネは、パリで画家への道を踏み出します。
パリに出てから、シスレー、ルノワール、ピサロなどの仲間と知り合い、ともに印象派のグループを結成し、自然の外光の描写を追求しました。
生涯、モネの関心は、外光によってさまざまに表情を変える自然にありました。
同じモティーフを時間毎に描き分け、光と色の変化を追った連作を数多く制作しています。
とくにモネが、彼の後半生で熱心に取り組んだのは、「睡蓮」の連作でした。
ジヴェルニーの自宅の庭園に睡蓮の池をつくり、制作に没頭しました。
この「睡蓮」は、画面全体が水面のみで占められています。
明るい色彩で丹念に描きこまれた画面からは、太陽の光、木や葉の影の反射、風による水面のさざなみなど、
時々刻々と変化し続ける水面のようすが伝わってきます。
■エピソード
1920(大正9)年、児島虎次郎は、親友の画家斎藤豊作とパリ郊外のジヴェルニーに住むモネを訪ねました。
当時モネは79歳。白内障でほとんど視力がなく、キャンバスに顔をくっつけるようにして描いていました。
モネは、すでに一流と呼ばれる画家でした。児島はもちろん、多くの画家にとっても雲の上の存在でした。
そしてモネは、浮世絵の大胆な構図や色彩を愛し、自宅の庭に日本式庭園をつくる親日家としても有名でした。
そこで児島たちは、「日本の絵描きのために是非作品を譲って欲しい。」と熱心に頼みました。
一流の画家には画商を通して交渉するという通例にならわず、直接モネと交渉したのです。
モネは熱心にたのむ日本人に心を動かされたのでしょうか、「今は大作に取りかかっている。(注1) 1か月したらまた来なさい。」といって絵を譲る約束をしてくれました。(注2)
1か月後、再び訪ねていくと、モネは「日本の絵描きのために」と「睡蓮」をはじめ数点用意していました。児島は、その中からこの「睡蓮」を選んだのです。
2000年6月下旬、大原美術館にジヴェルニーにある「モネの庭の睡蓮」が株分けされてやってきました。
毎年6月頃~10月頃まで私たちの目を楽しませてくれることでしょう。作品を鑑賞した後、池に咲く花を楽しんでみてはいかがでしょうか。
注1:児島虎次郎の日記より 「大作に従事す。二メートルの高さにて、幅四メートルのパノラマ式三十枚ことごとく、氏の庭園の一部を描きしもの」とある。
現在パリのオランジュリー美術館にある「大睡蓮」と思われる。
注2:このとき児島は、日本から牡丹の苗を送る、といってモネを喜ばせたと、日記に記している。