マネ

薄布のある帽子をかぶる女

■解説
エドゥアール・マネ(1832-1883)は生粋のパリジャンである。 彼は、作品の上では、当時の誰も考え及ばなかったような大胆な革命的試みを次々と発表して人びとを驚かせもし、また憤激させもしたが、日常生活においては、むしろ小心なほどの保守主義者で、 社交を好み、音楽や美術や美食を愛する享楽家でもあった。 パリの富裕な中産市民階級の家に生まれた彼は、早くから画家を志し、両親の許しが得られないため、一時は船員となって南アメリカに出かけたりもしたが、 結局初志を貫いて、トマ・クチュールのアトリエに学ぶことを認められた。 したがって、修業時代のマネは、決して大胆な反逆者などでなく、むしろ、平凡な画学生の道を辿ったと言ってよい。 しかし、1863年、31歳の時、有名な落選展に出品した《草上の昼食》、およびその2年後のサロンに出された《オランピア》をめぐる激しいスキャンダルによって、一躍世間の注目を集めるようになり、 一般の愛好者たちの強い非難を浴びると同時に、少数の前衛的な若い芸術家たちからは、新しい絵画の代表的旗手と見なされるようになった。
 もっとも、マネ自身、自己の作品の持つ革命的な意味合いを、どこまで自覚的に主張しようとしたかは、必ずしも明確ではない。 日常生活においてはむしろ普通の善良な市民であったばかりでなく、画家としても、意識においては、当時公認のサロンに入選することを、何より大事と考える「保守派」であった。 彼を指導者と仰ぐ印象派のグループが結成された時、心情的に彼らの美学に強く共感するものを持ちながら、結局グループ展に参加しなかったのも、反サロンというその主張に同調出来なかったためであった。 その意味で、彼は、逆説的な言い方ながら、きわめて保守的な革命家であったと言うことが出来るであろう。
 しかし、彼を「保守派」と呼ぶにせよ「革命家」と規定するにせよ、いずれにしても認めないわけにはいかないのは、その高度に洗練された都会的感覚であろう。 その見事な表現は、彼の残した多くの肖像画、特に女性肖像画にはっきりとうかがうことが出来る。 おそらく、第二帝政期から第三共和制の時代にかけて、パリの女たちの洗練された魅力をマネほど的確に画面に定着し得た画家はほかにいないであろう。 パステルによるこの婦人像は、その雄弁な例証のひとつなのである。


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