ブールデル

ベートーヴェン像

■解説
エミール=アントワーヌ・ブールデル(1861-1929)は、南フランスのモントーバンに生まれました。 13歳のとき、家計を助けるために学校を中退。木工の見習として働いていました。その途中で、才能を認められ、トゥールーズの美術学校に入学。 さらに23歳のとき、パリに出て国立美術学校で学ぶようになります。
国立美術学校での教育は、ブールデルを完全に満足させるものではありませんでした。 彼は美術学校を中退し、苦しい生活のなかで、サロンへの出品をつづけました。 そんな時に、彼は19世紀フランスを代表する彫刻家ロダンと出会います。ロダンは彼の才能をみとめ、高く評価したのです。
ブールデルは、32歳のときから、ほぼ15年間ロダンの助手をつとめました。 彼はロダンに教えをうけるだけでなく、ロダンの作品にも影響をあたえたといわれています。そして、彼は、師の影響をこえて、さらに自分の芸術を発展させました。
ブールデルは、27歳のときから1929年に亡くなるまで、音楽家ベートーベンの肖像にとりくみました。習作をふくめ、45点もの彫刻をのこしています。 当初、彼はベートーベンと自分の顔が似ているものと思って、制作にとりかかりました。 そうして制作しているうちに、彼は耳が聴こえなくなっても作曲をつづけたベートーベンの内面の葛藤を表現することにのめりこむようになったのです。
この「ベートーベン像」は、口をむすび、目をとじて苦悶の表情をうかべています。『音楽と彫刻はおなじものだ。 彫刻家はマッス(注1)とボリュームで創作し、音楽家は音で創作する』というブールデルの言葉は、この作品をとおして確かめられます。 「ベートーベン」には、石という素材で、生身の人間の苦しみを表現しようとした、ブールデル自身の苦闘がやどっているのです。

注1:マッス:かたまり、団塊。部分が集まって、ある程度の量にまとまったもの。

(参考文献)
「近代彫刻の父-巨匠・ブールデル展」図録 (山梨県立美術館) 1982年

■エピソード
1960(昭和35)年大原美術館は創立30周年を迎え、11月には記念の音楽会が開かれました。
この音楽会のために大原總一郎は、当時気鋭の作曲家であった黛敏郎、矢代秋雄の両氏に美術館の30周年にふさわしい新しい曲をつくって頂くよう依頼しました。
音楽会当日、總一郎は自ら司会をしました。エル・グレコ「受胎告知」の前の舞台には、ベートーヴェン像が展示されていました。 演奏の前に總一郎は、作曲家の方を一人ひとり紹介しました。
「黛敏郎さんです。矢代秋雄さんです。でも一曲目のベートーヴェンをお呼びすることが出来ないので、このブールデルのベートーヴェン像を買いました。」
一夜の音楽会のためにこんなことをしたのです。


その夜のプログラムは次のとおりです。
1. 弦楽四重奏曲 第七番 ヘ長調 作品59の1 「ラズモフスキー 第一番」ベートーヴェン作曲
2. 無伴奏チェロのためのソリロクィ 黛敏郎作曲 (現在は「文楽」という題名で世界的名曲として親しまれています。)
3. ピアノ・ソナタ(三楽章) 矢代秋雄作曲

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