セザンヌ

風景

■解説
ポール・セザンヌ (1839-1906)は、地中海にほど近い南仏エクス=アン=プロヴァンスの裕福な銀行家の家に生まれ、父の希望でエクス大学法科へ進み、一度は父の経営する銀行へと勤める。 しかしながら絵画への思い断ち難い彼は1861年にパリへ出て画家への道を歩み始める。こうした経緯があっただけに、セザンヌは画家としての社会的な認知を得るため長らく官設展での成功を目指すが、 その孤高の探求の成果は官設展への入選には結びつかないものであった。
 当初、セザンヌは官能的な主題を明暗の対比が著しいスタイルで描いていたが、やがて印象派との出会いによってその文学的なロマン主義を払拭し、自らの感覚を解き放つ道を見出す。 もっとも彼が求めたのは、クロード・モネのように感覚の名人芸を発揮して、うつろう風景の一瞬の相貌を手早く捉えることではなかった。
セザンヌは、色彩、筆致、構図、そしてその関わり合いを厳密に熟考して、自らが凝視して捉えた像をカンバスに実現しようとする。 こうした絵画独自の構成要素を厳密に探求する姿勢は、絵画を、たんに自然を再現的に模倣する存在から脱却させるとともに、「自然を円筒、円錐、球体として把握する」というテーゼを生み、後続のキュビスムの母体を用意することとなる。  次第に自らのスタイルを確立していったセザンヌは、郷里のサント・ヴィクトワール山や水浴する裸婦の群像などの連作に取り組む。そうした作品において、対象物の形を単純化あるいは変形させたうえ、 そこに色彩を複雑に関係付けて配した、緊張感とみずみずしい感覚のさざめきが同居する成果を挙げた。 まさにそれらは絵画を成立させる論理と感覚が高次元で結晶したものと言えるだろう。
 生前は社会的に高い評価を受けることがなかったセザンヌだが、同世代の革新的な画家達やナビ派など後続世代へ与えた影響はあまりに大きく、現在では20世紀絵画の父とまで呼ばれることとなった。

■エピソード

本作は、1910(明治43)年に創刊された雑誌『白樺』の同人達が自分たちの美術館を建設することを目的に、雑誌上で寄付を募るなどして購入したものです。 残念ながら関東大震災により雑誌の刊行自体が終了し、美術館設立も実現しませんでした。
1950(昭和25)年に大原美術館開館20周年の座談会に、同人であった柳宗悦、武者小路実篤、志賀直哉、長与善郎を招いたのを機に、この作品とオーギュスト・ロダンのブロンズ彫刻三点が、大原美術館に展示されます。 そして、1968(昭和43)年9月8日、「白樺美術館」企画人を代表して武者小路実篤、志賀直哉の両人と大原美術館との間に、これらの作品を白樺美術館の名のもとに、永久に大原美術館に委託するという正式な書面が交わされました。 そこには、「…以上の作品は白樺美術館設立の企図の下に蒐集されたものでありますが、遂にその設立を見ずして歳月を経ましたので、当館に於いては柳先生の希望に則り白樺美術館当初の御意図に副うよう努めて参りました。 …(中略)…この際双方の意図を文書の上に遺し、白樺美術館同人は左記作品四点を永久に大原美術館に委託し、…(中略)…永くその意図に副いたいと存じます」と書かれてあります。
このことについて武者小路実篤は、大原美術館に送った手紙において、「白樺美術館をつくろうとしてあつめた寄付が未完成すぎた結果、柳宗悦、志賀直哉達の申し出があり、白樺美術館の完成はものにならない事がわかっていたので、我々が相談してこの美術館に委託したものです。 …誰からも反対されなかったと思います。幸いこの美術館からも喜んでいただけ、私達の骨折も無駄にならなかった事を喜んでいるわけです。 …ロダンからもらったブロンズ三つと共に美術館におさまっている事になり、私達は喜んでいる事になりました(原文のまま)」と述べています。

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