ゲラン

タンバリンを持つイタリアの女

■解説
シャルル・ゲラン(1875-1939)はフランス、サンスの生まれ。19歳でパリの美術学校に入り、ギュスターブ・モローに師事、また、セザンヌに傾倒し強い影響を受けました。 本作品の構図やタッチにもセザンヌに通じるものが見て取れますが、その堅実な仕事振りは保守的傾向を持つ美術アカデミーも人々にも受けが良かったようで、ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール、サロン・ドートンヌ、サロン・デ・テュイルリーなどで活躍しました。
アカデミー・コラロッシでゲランに師事した小山敬三は、後年このように懐述しています。「絵画を基礎的から究め、クラシックに通じる仕事をしている人と思ったから(ゲランに)師事した。 ゲランは教えることが上手でかつ熱心な人だった。例えば立っている人のポーズを描こうという時は、まず重心がどこに落ちるかを定めてプロポーション――頭や体の割合や傾きを筆でいちいち測って筆で画面に要点の点を打っていく。 その点と点をつなぐと、それだけで一通りの骨組みができるというやり方だった。……中略……(ゲランに師事して)結局デッサンとは描かれる一点一劃が画面全体にいかに互いに響き合い、 ムウブマンを起こしたまま均衡を保ち合わせるか会得するのが問題であって、ちょうど名棋士が一石打つたびにそれが全盤上の動きに及ぼす影響を二手三手と先を読んで打つような仕組みを会得することだと心得た。」
また、ゲランは小山の油絵を誉めて「油絵とはこういう風に描くものだ、こういうよう要点をつかみ、大きく細部にこだわらずものを見ていかなければならない」と言ったそうです。
小山の懐述からは、絵の骨格を大切にすることを生徒たちに伝えようとしたゲランの様子が伺えるのではないでしょうか。これを踏まえてもう一度本作品を見てみると、 その指導に恥じない堅牢な構図・骨格がこの作品の大きな魅力となり、その魅力が赤と黒を基調とし抑えられた色彩によって、より強調されていることがわかります。 ゲランはこのような民族衣装を着たイタリアの女性像を何度も繰り返し描いていますが、その繰り返しはすなわち、同じ題材による構図の強度の追求であったのかもしれません。
さて、話はかわりますが、シャルル・ゲランはもちろん、彼が師事したギュスターブ・モロー、強い影響を受けたセザンヌ、そして弟子となった小山敬三……当館はこの文章に登場した全ての画家の作品を所有しています。 洋の東西を越えてこうした画家同士の繋がりを作品で追うことができるのは、当館の面白さであり自慢でもあります。どうぞ、そんな繋がりも楽しみながら当館の展示をご覧になってみてください。

<参考文献>
岡部あおみ 「大原美術館コレクションの起源-日本の近代美術館の原型-」 『大原美術館紀要』第1号 2001年11月5日 財団法人大原美術館
小山敬三 「越し方の記」 『小山敬三画伯記念集』 1988年11月28日 小山敬三画伯を偲ぶ会


■エピソード
この作品は、大原孫三郎が児島を通じてアマン=ジャンに購入を依頼していた作品20点のうちの1点で、1921年末にフランスより届けられました。
翌1922年、これらの作品を展示するため、倉敷の小学校を会場として、第2回現代仏蘭西名画家作品展覧会(注1)が開かれました。
この展覧会には、洋画家・小磯良平が友人の竹中郁と一緒に訪れました。二人はその頃中学生で、神戸から夜行列車に乗って朝早く倉敷に到着し、展覧会場へは一番乗りであったそうです。
二人は、100号以上もある大作がたくさん並んでいる中で、夢中になって作品を見ていました。後に竹中郁は、小磯があたりに人がいないのを見計らって、この作品の下の方の隅をなめた、と述べています。 よい絵はよいタッチで出来ている、確かめるのには舐めてみればわかる、という理論を実地でやって見せたということです。
画家を志す、少年・小磯にとって、本物の西洋絵画に触れることの出来る、またとない好機だったのです。
小磯は普段いたずらっぽいことはしなかったようですが、本物の作品に触れ、つい味わってみたくなったのかもしれません。

注1:1922(大正11)年1月2日~8日まで、倉敷小学校にて開催された。

<参考文献>
竹中郁 「消えゆく幻燈」 ノア叢書5 1985年3月7日

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