


孫三郎[まごさぶろう]は、倉敷紡績[くらしきぼうせき]で働いているたくさんの人やその家族の健康を守るためには、いろいろな病気やけがを治りょうすることができる大きな病院が必要だと考えていました。ちょうどそのとき倉敷[くらしき]ではインフルエンザがはやり、多くの人がなくなっていました。そこで孫三郎[まごさぶろう]は、倉紡[くらぼう]で働いている人だけでなく、倉敷[くらしき]に住むすべての人がみんな同じように利用できる病院をつくることをけっ心しました。
病院をつくるために、ゆうしゅうなお医者さんたちをつれてきたり、病気のことを研究するために必要な医学書をたくさん集めたりしました。また、外国の病院を見学させ、すばらしいところを取り入れるようにもしました。
1923(大正12)年、病院は完成します。孫三郎[まごさぶろう]は、病院の中に温室の休けい室をつくり、一年中植物や花を楽しむことができるようにしました。かべやドアなどの色にも気をくばりました。病院内のいろいろなところには絵(名画のふくせい)がかざられました。病院の中を明るくし、病気の人たちが少しでも気持ちよくすごせるようにと心がけたのです。また、エレベーターもありました。病気の人を歩かせてはならないという孫三郎[まごさぶろう]の考えからです。それだけではなく、かんごふのための住まいやプールをじゅんびするなど、働く人のことも考えていました。
今では当たり前のように思えますが、80年以上前ではこのような病院はたいへんめずらしいものだったのです。

1902(明治[めいじ]35)年に、孫三郎[まごさぶろう]が倉敷精思高等[くらしきせいしこうとう]小学校の教室を借りて開いた学校です。そこで学んでいたのは、会社や工場、商店などで働いているため、昼間学校に通うことのできない人たちでした。学校は夜開かれ、生徒[せいと]たちは商業についてのことやえい語、数学、修身[しゅうしん](今の道徳のようなもの)を中心に勉強しました。孫三郎[まごさぶろう]自身は校長となり、修身[しゅうしん]を教えていました。なんと、23才というわかい校長先生だったのです。倉敷[くらしき]の人たちに教育を受けさせようとする、孫三郎[まごさぶろう]の熱心な気持ちが伝わるようです。

明治[めいじ]時代、多くの人たちは小学校をそつ業すると働かなくてはなりませんでした。なかには、もっと勉強したいと願っている人もいましたが、十分な学費がないためにあきらめることが多かったのです。 孫三郎[まごさぶろう]はそんな人たちを助け、勉強を続けることができるようにしました。この学費をだすために、多くの人によびかけてつくったのが倉敷奨学会[くらしきしょうがくかい]です。そして孫三郎[まごさぶろう]は、ただ学費をあたえるだけでなく、はげましの手紙をいっしょに送ったり、直接会って話をしたりするなど、わか者たちがりっぱに成長するように心がけました。孫三郎[まごさぶろう]の手助けで大学に進んだ人たちの多くは、その後、世の中で活やくしました。児島虎次郎[こじまとらじろう]もそのうちの一人です。

孫三郎[まごさぶろう]は、有名な学者や作家などをまねいて、毎月1回、倉敷[くらしき]の人のためになる話を聞く会を開くことを考えつきました。こうして、1902(明治[めいじ]35)年、第1回倉敷[くらしき]日曜講演会[こうえんかい]が開かれました。600人以上の人が会場につめかけ、講演会[こうえんかい]は大成こうをおさめました。 しかし、東京などから話をしてくれる人をまねいたり、会場のじゅんびをしたりするのは、たいへんな仕事で費用もかかります。そのうえ孫三郎[まごさぶろう]は、講演会[こうえんかい]での話を本にまとめてくばったりもしていたので、まわりの人たちはきっと長くは続かないだろうと考えていました。ところが孫三郎[まごさぶろう]は、「講演会[こうえんかい]こそ、倉敷[くらしき]の人たちの教育のためになる一番よい方法だ」と考え、3年は続けようとけっ心しました。このような孫三郎[まごさぶろう]の強い気持ちがあったからでしょう。日曜講演会[こうえんかい]は、その後23年間も続き、全部で76回も開かれました。「わしの目は10年先が見える。10年たったら世の中の人に、わしのやったことがわかる」と孫三郎[まごさぶろう]はよく言っていましたが、この言葉どおり、講演会[こうえんかい]によって倉敷[くらしき]の人たちも孫三郎[まごさぶろう]も大きく成長しました。旧5千円さつに印さつされている新渡戸稲造[にとべいなぞう]や、早稲田[わせだ]大学をつくり総理大臣[そうりだいじん]にもなった大隈重信[おおくましげのぶ]も講演会[こうえんかい]にまねかれたのですよ。 この講演会[こうえんかい]は、孫三郎[まごさぶろう]とそのむすこの名前をとって「大原孫三郎[まごさぶろう]・總一郎記念講演会[そういちろうきねんこうえんかい]」として今も続けられています。孫三郎[まごさぶろう]の「倉敷[くらしき]の人たちの教育のために」という思いが人々にうけつがれ、今も生き続けているのです。

大原美術館は、倉敷を基盤に幅広く活躍した事業家大原孫三郎が、大原家は、500ヘクタール(東京ドーム、約107個分)の田畑を持ち、そこではなんと2500人もの小作人が働いていました。大原家のために働く小作人のすがたを見て育った孫三郎[まごさぶろう]は、早くから農業に関心をもっていました。
1914(大正3)年、孫三郎[まごさぶろう]35才のとき、自分の土地で働く小作人たちだけでなく、田畑で働くすべての人の力になりたいと考え、農業研究所をつくりました。そこでは、たねやひ料、がい虫・病気などの研究が進められました。研究に役立つ本もたくさん集められ、図書館も建てられました。
岡山県の代表的なくだものであるももやぶどうの新しい品しゅが、この研究所で生み出されたことは特に有名です。この研究所が、「くだもの王国」とよばれる岡山県のもとをつくったと言ってもよいでしょう。

この研究所は、1919(大正8)年につくられました。そのころ世の中では、多くの人たちが苦しい生活を送っていました。子どもたちの多くも生活を助けるため、小学校をそつ業するとすぐに工場などに働きに出たり、家の仕事を手伝ったりしなければなりませんでした。「大原家のざい産はすべて神のため、社会のために使われるべき」という考えをもっていた孫三郎[まごさぶろう]が、この研究所をつくることを思い立ったのは当然のことかもしれません。研究所では、どうすればゆたかな人々とまずしい人々の差がなくなり、みんなが幸せにくらすことができるようになるか研究が進められました。