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アマン・ジャン 「
アマン・ジャン 「ヴェニスの祭
エル・グレコ 「受胎告知
ゲラン 「タンバリンを持つイタリアの女
クールベ 「秋の海
クラウス 「二月
ゴーギャン 「かぐわしき大地
コッテ 「老馬
コロー 「ラ・フェルテ=ミロンの風景
シニャック 「オーヴェルシーの運河
シャヴァンヌ 「幻想
セガンティーニ 「アルプスの真昼
セザンヌ 「水浴
セザンヌ 「風景
デルヴァン 「連馬
トゥールーズ=ロートレック 「マルトX夫人の肖像―ボルドー
ドガ 「赤い衣裳をつけた三人の踊り子
ドニ 「
ピサロ 「りんご採り
ピサロ 「ポントワーズのロンデスト家の中庭
ブールデル 「ベートーベン像
フレデリック 「万有は死に帰す、されど神の愛は万有をして蘇らしめん
ホドラー 「木を伐る人
マネ 「薄布のある帽子をかぶる女
ミレー 「グレヴィユの断崖
モネ 「睡蓮
モネ 「積みわら
モロー 「雅歌
ラファエリ 「アニエールの街路
ル・シダネル 「夕暮の小卓
ルソー 「牛のいる風景-パリ近郊の眺め,バニュー村
ルノワール 「泉による女
レールマン 「小径
ロダン 「カレーの市民―ジャン=ダール
ロダン  「説教する聖ヨハネ
 

■解説
オーギュスト・ロダン(1840-1917)は、パリ生まれ。15歳のとき、素描を学び、彫刻家になることを決意。国立美術学校を3度受験したものの、失敗し入学をあきらめます。1862年、22歳のとき、姉をなくした悲しみのあまり、修道院に入会。ここで彼の才能を惜しんだ神父のすすめにしたがって、彼は再び彫刻家の道を歩むことになりました。世に認められるまでの、ロダンの道は、決して平たんなものではありませんでした。彫刻家や装飾家の助手などをして働き、下積みの時代を長く経験。1877年、37歳のとき、サロンに出品した「青銅時代」は、そのあまりにも写実的な表現のため、生身の人間から型取りしたのではないかという疑惑がもちあがりました。1880年、40歳のとき、この「青銅時代」がフランス政府買い上げになったころから、ロダンの力量はしだいに認められるようになりました。以後、パリ装飾美術館の扉「地獄の門」、バルザックなどの文豪の記念像の注文をつぎつぎ受けるようになりました。こうして、ロダンは多くの習作を制作しながら、人間の本質にせまる、すぐれた作品を残していったのです。

洗礼者ヨハネ
「洗礼者ヨハネ」は、キリストに洗礼をさずけた人物。それ以前の絵画では、聖書の内容をふまえ、幼児あるいは荒野で修行中のやせおとろえた姿で描かれていました。ロダンは、前へと人々を導いていこうとする、たくましい姿で表現しています。
この「洗礼者ヨハネ」は、分館前庭に設置されている「歩く人」に頭と手をつけて完成されたものです。この二つの彫刻を見くらべると、人体の動きを見事にとらえたロダンの眼の確かさを感じとることができることでしょう。

(参考文献)
「ロダン展」図録 (読売新聞社/美術館連絡協議会/現代彫刻センター) 1998年


■エピソード
「洗礼者ヨハネ」「カレーの市民」の両作品は、1922(大正12)年、児島虎次郎がロダン美術館で交渉し、鋳造してもらったものです。
1939(昭和14)年、太平洋戦争が勃発。1943(昭和18)年夏、ロダンの銅像2体に金属供出命令が出されました。当時の館長、武内潔真は、直ちに回収免除の申請を岡山県に提出しましたが、免除される見通しは暗いものでした。
日本は、長引く戦争によって多くの労働力が軍や軍需産業に従事し、物資の不足から生活必需品さえ入手困難な状況に陥っていました。
少ない物資は軍需優先。さらに兵器製造のための金属を集めるため、金属類回収令が出されたのです。
美術品、文化的遺産といえども例外はなく、すでにお寺の仏具や釣鐘などが供出されており、さらには仏像、銅像、鉄びん、文鎮、学生服の金ボタンまで供出しなくてはならないほどでした。
その年の秋、岡山県物資課職員、審議会委員による視察が行われました。 職員、委員の何人かにも供出を惜しむ声があったそうです。審議会では、その他の供出物件ともあわせた報告書を県に提出しました。
「供出の必要なし」
岡山県が出した決定でした。 岡山県下で約170体の銅像が供出されることとなり、残されたのは大原美術館のロダン2体を含め、7体のみでした。
日本の文化財であってもこの命令が免除されることは稀であった上に、ロダン作品は敵側の芸術作品。この決定はまさに奇跡的とも言えるのではないでしょうか。

この貴重な作品は、現在も、大原美術館・本館正面玄関の両側で、多くのお客様をお迎えしています。