前へ戻る 次へ進む
 
アマン・ジャン 「
アマン・ジャン 「ヴェニスの祭
エル・グレコ 「受胎告知
ゲラン 「タンバリンを持つイタリアの女
クールベ 「秋の海
クラウス 「二月
ゴーギャン 「かぐわしき大地
コッテ 「老馬
コロー 「ラ・フェルテ=ミロンの風景
シニャック 「オーヴェルシーの運河
シャヴァンヌ 「幻想
セガンティーニ 「アルプスの真昼
セザンヌ 「水浴
セザンヌ 「風景
デルヴァン 「連馬
トゥールーズ=ロートレック 「マルトX夫人の肖像―ボルドー
ドガ 「赤い衣裳をつけた三人の踊り子
ドニ 「
ピサロ 「りんご採り
ピサロ 「ポントワーズのロンデスト家の中庭
ブールデル 「ベートーベン像
フレデリック 「万有は死に帰す、されど神の愛は万有をして蘇らしめん
ホドラー 「木を伐る人
マネ 「薄布のある帽子をかぶる女
ミレー 「グレヴィユの断崖
モネ 「睡蓮
モネ 「積みわら
モロー 「雅歌
ラファエリ 「アニエールの街路
ル・シダネル 「夕暮の小卓
ルソー 「牛のいる風景-パリ近郊の眺め,バニュー村
ルノワール 「泉による女
レールマン 「小径
ロダン 「カレーの市民―ジャン=ダール
ロダン  「説教する聖ヨハネ
 

■解説
ジャン・デルヴァン(1853‐1922)は、ベルギーのゲント生まれ。ブリュッセルでロマン派の画家に学びました。1881年からは故郷のゲント美術アカデミーの教授に就任。1902年からは校長もつとめました。彼は、画家としてよりもむしろすぐれた教育者として、ベルギーの美術史にその名をとどめています。彼のもとで表現主義の画家たちが何人も育っていますし、太田喜二郎(注1)・児島虎次郎も彼のもとで学んでいます。
デルヴァンの画風は伝統的なものでしたが、彼自身はつねに新しい美術の動きに目をむけていました。彼は「20人会」(注2)の創立に参加。さらに「自由美学」(注3)の展覧会にも出品しています。
デルヴァンは、動物画を得意とし、特に馬を好んで描きました。この「連馬」は、地塗りされた粗目のキャンバスに手早く描かれた作品。画面前方には、すぐれたデッサン力で描かれた人物と馬。明るい空の青、雲を表現する白色に混ぜられた黄色と赤色の取り合わせ、画面遠方の黄色がかった建物の表現は、どことなく非現実めいた世界を感じさせます。この作品には、伝統的な絵画表現に身を置きつつ、新しい美術に興味をしめしたデルヴァンの姿勢が反映されていると言えるのではないでしょうか。

注1:太田喜二郎(1883-1951):京都出身の画家。東京美術学校で学んだのち、ベルギーに渡り、ゲント美術アカデミーで新印象派の画風を身に付け帰国。
注2:20人会:ベルギー・ブリュッセルの美術団体。反官展の美術家が結成。ゴッホ、ルドン、スーラなど、当時はまだ評価が定まっていなかった外国の画家を招待し、作品を展示しました。
注3:自由美学:「20人会」を継承した美術グループ。

<参考文献>
『新潮世界美術辞典』 (新潮社) 1985年
冨田章、「児島虎次郎とベルギー美術」、『「没後70年児島虎次郎展」図録』 (「没後70年児島虎次郎展」実行委員会) 1999年


■エピソード
児島は、留学の為パリに渡った翌年の1909(明治42)年、ベルギーのゲント市に友人の太田喜二郎(注1)を訪ねた時、デルヴァンを紹介されました。
デルヴァンについて、児島は滞欧画談のなかで次のように語っています。
「太田喜二郎君が通学していた学校の校長デルヴァンから、私に其の学校へ来て見てはどうかと言われました。私は学校と云ふものを好まぬのと、且つ一週間位滞在して巴里へ帰るのであるから却って失礼だからと云って断ったがそれはちっともかまわぬゆえ一日学校を観に来いと勧められたので、往って観ました。処が案外にも、外の学校などとは大いに趣が異なって居まして、特に校長は非常に温厚で、親切で、熱心でした。私は校長の教育上の主義と、其の熱心と、其の人格とに感心して遂にゲントに留まって、その学校へ入ることに決めました。そして段々長く留まることになって了ひました。
―中略―
私の見るところでは、先生は嘗て欧羅巴の諸展覧会へも出品されたことがあって、相当の位置を占められた人であるけれども、併し技術の上では、最高の地位を占める人ではないであらうと思はれるが、其の教育上の主義と、其の後進を指導するの熱心と懇切と、能く門下の特長を見出して之を助成することに於いては、実に類稀れなる人であると思ひます。」
また、デルヴァンはどんな生徒にも分け隔てなく接し、西洋のものであった洋画を学ぶ東洋人の児島に対し、西洋と東洋の文化の違いを認めた上で、西洋人のまねばかりせず自分が育ってきた固有の特長を失わないようしなければならない、というアドバイスをするなど、当時では珍しく理解のある教師でした。
そうしてデルヴァンは、生徒たちの新しい芸術表現を積極的にのばし、多くの優れた画家を輩出したのです。
児島は自分のルーツに対してのアイデンティティーを持ちつづけることの大切さをデルヴァンから学びました。そして、そのなかで東洋人としての眼で作品を選び、常に「新しい表現の作品を」という、その後の美術作品を収集する上での原点を築いたのではないでしょうか。

<参考文献>
児島直平『児島虎次郎略伝』 (児島虎次郎伝記編纂室)