■解説
ジョヴァンニ・セガンティーニ(1858-1899)は、北イタリアのアルコ生まれ。当時のアルコは、オーストリア領に属し、イタリア国内では、彼は外国人とみなされました。
セガンティーニは、幼いときに母を亡くし、父とも別れ、不遇な少年時代をおくります。ミラノのアカデミア・ブレラで絵画を習得。1883年、25歳のときに描いた「湖を渡るアヴェ・マリア」が、アムステルダム万国博覧会で金メダルを獲得。その後も国際的な賞をいくつか受賞しました。
セガンティーニの作品には、点描をもちいた新印象派風の作品、暗い色調の幻想的な作品があります。とくに、彼の名前を高めているのが、アルプスの澄んだ明るい陽光の下、働く人々や牛や羊の群れを描いた作品です。彼は、パレットで色を混ぜあわせないで、一筆一筆を細くぬりかさねて描くという筆触分割の手法をもちいました。この手法によって、草一本の光のかがやきまで表現することに成功しているのです。
セガンティーニは、美しい草原の風景を求めて、国境に近い北イタリアへ、さらにスイス国内の山岳地帯へと、移住していきました。アルプスの風景は、彼自身の心のうつろいを表現するためのテーマだったのでしょう。その生涯の最後に、人生を象徴的にあらわした風景画「生」「自然」「死」(1899年、セガンティーニ美術館〈スイス・サンモリッツ〉蔵)の三部作をのこしています。
この「アルプスの真昼」は、スイスのサヴォニンで描かれました。雲ひとつない青空。前面から背景へ一面に広がる草原。突きぬけたような広い空間には、光があふれています。
(参考文献)
「セガンティーニ展」図録 (神戸新聞社) 1978年
■エピソード
この作品は、1922(大正11)年3度目の渡欧の際児島虎次郎が購入したものです。 児島は、セガンティーニについて大正2年8月発行の美術新報の「滞欧画談」のなかで次のように語っています。
「あれは実は、デルヴァン先生が、いつも私に、君は一度セガンティーニの絵を見たら敬服するだろうと、度々言はれましたので、其の画が見たくなって居たのでしたが、…(中略)…。私は思うにセガンティーニの絵は、兎も角も褒めるという度を超えて居ます。仏蘭西ではミレーに比べる人があるけれども、セガンティーニは、ミレーよりも一段上であるかと思います。…(後略)…。」
そしてセガンティーニの作品について、「セガンティーニ以前にセガンティーニなく、セガンティーニ以後にセガンティーニなし」とさえ言っています。児島は、東京美術学校時代、ミレーに憧れ、自画像の模写を自室に飾っていました。(Web展示のミレー「グレヴィユの断崖」参照)ミレーが素朴な農民生活と向き合って作品を描いたのに対し、セガンティーニはアルプスの厳しい自然を師として作品を描きました。「自然を愛するという信念が他と異って居た(滞欧画談より)」ことが、同じく自然を愛する信念を持っていた児島に、ミレー以上の崇高の念を抱かせたのではないでしょうか。
児島は、「アルプスの真昼」購入当時の日記に、 「12月2日(土)・夜九時三十分発列車で、スイス・バーゼルにあるセガンティーニの絵を買いに行く。3日(日)・朝七時半、バーゼルに着く。ベルリンのハベラトックは昨夜から来て待っていた。4日(月)晴・朝、バーゼルにある所有者ウエンドランド邸訪問。十七、八世紀の古めかしい建築で後庭は広く閑雅である。セガンティーニはよい絵であった。苦労しただけの甲斐はあった。しかし国境を越えてパリーへ持ち帰る事はなかなか骨の折れることである。(児島虎次郎略伝より)」と苦労とともに感動を綴っています。 初めてセガンティーニの作品と出会ってから11年後、ついにこの絵を購入できたときの児島の感動は、とても大きかったに違いありません。
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